凡例池田 政純
時代江戸時代中期 - 後期
生誕宝永3年6月10日(1706年7月19日)
死没明和3年5月24日(1766年6月30日)
改名長千代、隆右、政純
別名通称:豊次郎、出羽、和泉
号:琴調
戒名徳雲院前泉州逸嶽崇俊大居士
墓所天城池田家墓所(岡山県倉敷市)
幕府江戸幕府
藩備前岡山藩
氏族池田氏(宗家→内膳家→天城家)
父母父:池田綱政、母:幸品
兄弟輝尹、恒行、吉政、軌隆、土倉一明、政順、継政、政純ら
妻豊子[1][2]
子幸子、国子、静子、政辰、長次郎、滝川一洪、美恵子、唯子、明命
養子:政喬
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池田 政純(いけだ まさずみ)は、江戸時代中期から後期の岡山藩家老。天城池田家第6代当主。 宝永3年(1706年)、池田綱政の末男として岡山で誕生した。母は幸品(栄光院)。宝永6年(1709年)、池田武憲の名跡を再興するも、同年に藩主世子の同母兄政順が死去し、天城池田家を継いでいた同母兄保教(継政)が実家に戻り藩主世子となったため、翌宝永7年(1710年)代わって天城池田家の家督を相続した[1]。 正徳5年(1715年)4月、母栄光院とともに幕府の証人となる。享保5年(1720年)9月、許されて国許に戻り、分家並の待遇を受ける。元文2年(1737年)、継政が正室村子(伊達吉村次女)と離婚した際に、伊達家側から幕府に、池田家内で家老たちが不行跡の藩主継政を押込め、その嫡子宗政(村子の子)を毒殺し、継政の同母弟政純を藩主に立てようと図っているとの風聞が伝えられている。 明和3年(1766年)5月24日没。享年61。妻の豊子も政純のあとを追うように5月26日に死去した。嫡子政辰は先立って没していたため、娘唯子の夫政喬(継政の次男)が政純の養子となり、家督相続した。墓所は天城池田家墓所(岡山県倉敷市)。 兄継政(俳号雪扇子)と同じく、和歌や俳句を好み、俳号を琴調と名乗った。 政純の外孫一条溢子(一条道香と静子の娘)[4]は水戸藩主徳川治保に嫁ぎ、治紀をもうけ、その子孫は水戸徳川家などに血脈を伝えている。最後の将軍徳川慶喜やその弟の鳥取藩主池田慶徳と岡山藩主池田茂政、また尾張藩主徳川慶勝は政純の来孫にあたる。慶徳以降の鳥取池田家当主は、最後の当主である百合子に至るまで、政純の直系子孫である(慶徳―輝知…仲博―徳真―百合子)。 池田輝政 池田利隆 池田政純 静子 一条溢子 徳川治紀 徳川斉昭 徳川慶喜 池田仲博
生涯
人物
系譜池田政純の墓
正室:豊子 - 松平綱国養女、安藤国近の娘
長女:幸子(1728年 - 1731年) - 早世
次女:国子(1732年 - 1737年)
三女:静子(1734年 - 1755年[3]) - 池田継政養女、一条道香政所
長男:政辰(1737年 - 1762年)
侍妾:中西氏
五女:唯子 - 池田政喬室
生母不明の子女
次男:長次郎
三男:滝川一洪(1739年 - 1776年) - 岡山藩番頭滝川一儔養子
四女:美恵子 - 池田政員室のち旗本滝川一道室
四男:明命(1762年 - 1772年) - 岡山藩番頭池田明貞養子
養子
政喬(1739年 - 1809年) - 兄・池田継政の次男
子孫
池田徳真 池田百合子
池田慶徳 池田輝知
池田亨子
池田茂政
規姫 徳川慶勝
池田忠継 池田治道 浄諦院 幸子
参考文献
『池田老臣累記』
『備前家老略伝』
『池田氏家譜集成』
『華族系譜20』
脚注
注釈
出典^ a b 『池田老臣累記』
^ 『備前家老略伝』
^ 『東福寺誌』・『華族系譜20』
^ 『一条家譜』・『華族系譜20』・『浄土宗全書第19巻』
表
話
編
歴
天城池田家6代当主(1710年 - 1766年)