池田慶徳
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 凡例池田 慶徳
池田慶徳(鳥取県郷士史より)
時代江戸時代後期 - 明治時代
生誕天保8年7月13日1837年8月13日
死没明治10年(1877年8月2日
改名五郎麿(幼名)、松平昭徳(初名)、池田慶徳
別名子明()、省山(
神号池田慶コ命
墓所鳥取県鳥取市立川町の大雲院
官位従四位上相模守因幡守左近衛中将従二位権中納言正二位、贈従一位
幕府江戸幕府
主君徳川家慶家定家茂慶喜明治天皇
因幡鳥取藩主→鳥取藩知事
氏族水戸徳川家因州池田家
父母父:徳川斉昭、母:松波春子
養父:池田慶栄
兄弟賢姫、祝姫、徳川慶篤、松姫、徳川慶喜、慶徳、茂政松平直侯、八代姫、松平武聰喜連川縄氏松平昭訓徳川貞子松平忠和土屋挙直、愛子、徳川昭武松平喜徳松平頼之、正姫ら
妻正室:池田寛子(池田清直の養女)
子某、輝知
養子:正姫(異母妹)、常子
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池田 慶徳(いけだ よしのり)は、幕末大名因幡鳥取藩第12代(最後)の藩主、のち鳥取藩知事

15代将軍となる徳川慶喜は同年生まれの異母弟、備前岡山藩池田茂政は同母弟にあたる。
生涯.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

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水戸徳川家から因州池田家へ

幕末の尊皇攘夷運動に大きな影響を与えた水戸思想の主導者・水戸藩徳川斉昭の五男(庶子)で[1]、母は側室の松波春子。幼名は五郎麿。元服して父斉昭より偏を受け昭徳(あきのり)と名乗る[注釈 1]。斉昭は「堂上風にて御美男、御品よく、少しく御柔和に過ぎ、俗に申す養子向」と評したようである。

嘉永3年10月29日(1850年12月2日)、鳥取藩主池田慶栄が嗣子なくして急死したことから、幕命によりその養子となる。将軍徳川家慶より偏諱を受けて慶徳に改名、松平相模守を称した。家督を継ぐと藩政改革に着手し、藩校尚徳館を拡充して下士にも通学を許すなど学問を奨励し、藩内に水戸学が浸透した。民意を聞くことに努め、軍制の改革にも力を入れた。嘉永6年(1853年)に、江戸桶町千葉道場を開いた千葉定吉を剣術師範として召し抱えている。
文久政局に乗り出す

文久2年(1862年)4月に薩摩藩主島津久光が藩兵を率いて上洛し、朝幕間の周旋に乗り出す。これを機に鳥取藩でも慶徳の国事周旋を推進しようとする声が尚徳館教授方を中心に上がったが、慶徳にその気はなく、藩主側近の保守派は周旋方(推進派)に取り合わなかった。しかし、同年7月に長州藩毛利慶親土佐藩山内豊範が相次いで入洛し、京都で尊王攘夷の機運が高まるとの報に接すると、国事周旋に乗り出す決意を固める[注釈 2]

9月に朝廷が幕府に攘夷を促すための勅使派遣を決定すると、幕府の優柔を懸念した慶徳は10月15日に入洛して国事周旋の勅諚を受け、20日には敬親・豊範に続いて参内を果たした。そして東下周旋の命を受け、11月5日に江戸に着くと政事総裁職松平春嶽山内容堂松平容保らと会談を重ねた。さらに、奉勅攘夷と決した幕議に対し、異議を唱えて将軍後見職辞任を表明し登城を拒否していた異母弟一橋慶喜の説得にあたった。

勅使を迎えた将軍徳川家茂が攘夷の勅諚を奉じ、その方策は翌春上洛して協議すると決したのを見届けると、慶徳は12月に再び入洛し、攘夷は幕府に一任して外藩は退京させるよう朝廷に働きかけた。明けて文久3年(1863年)正月には、攘夷期限を決定し、それまでに早急な武備充実に努め幕府主導で挙国一致体制を整えるよう幕府に建白する。
幕府への不満と攘夷親征への危惧

慶徳は、2月に朝廷から摂海守備総督を命じられるなど京坂で活動する間も、幕府に攘夷期限の決定を促していたが、大坂湾(摂海)や藩地の沿岸警衛策を講じるため3月16日に帰国の途に就いた。この年から翌年にかけ、鳥取藩では沿岸9カ所の要地に西洋式の台場が築造された。

その後も過激尊攘派から期限決定を迫られ続けた幕府は、4月23日に至り「攘夷の儀、五月十日拒絶に及ぶべき」と布告したが、期限前日の5月9日に生麦事件の償金を横浜英国公使に支払い、慶徳を憤慨させた。上洛中の家茂の名代として江戸にあった実兄の水戸藩主徳川慶篤も償金支払いの経緯に関わっていたと伝えられ、「水戸」に連なることで声望の高かった慶徳の立場を苦しいものにした。挽回のため攘夷路線の強化を求める周旋方と慎重論を唱える保守派の確執も激しくなっていく。こうした中、大坂天保山を守備していた鳥取藩は6月に大坂湾に進入した英国船を砲撃した(命中せず、英国船は無事脱出)。

幕府と朝廷から上洛を求められた慶徳は、6月27日に本圀寺に入った。この時期、幕府の穏便な姿勢に対抗し日本全体での攘夷戦争遂行を望む長州藩が、攘夷親征を天下に号令するよう朝廷に働きかけていた。


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