池田恒興
[Wikipedia|▼Menu]

 凡例池田 恒興
池田恒興像(林原美術館[1]
時代戦国時代 - 安土桃山時代
生誕天文5年(1536年
死没天正12年4月9日1584年5月18日
改名恒興、勝入(
別名勝三郎、紀伊守(通称)、信輝
戒名護国院雄岳宗英大禅定門
墓所京都市右京区花園の妙心寺慈雲院
岐阜県揖斐郡池田町本郷の龍徳寺
鳥取県倉吉市の勝入寺
和歌山県伊都郡高野町高野山奥の院
主君織田信秀信長信忠秀信羽柴秀吉
氏族池田氏
父母父:池田恒利、母:養徳院
正室善応院
元助せん輝政長吉長政若政所、天球院、浅野幸長正室、織田勝長正室
養子:七条
テンプレートを表示

池田 恒興(いけだ つねおき)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将大名清洲会議に出席した4人の織田家重臣の一人。子に元助輝政など。信長とは乳兄弟になる[2]滝川一益の父方の従弟でもある。

尾張国犬山城主、摂津国兵庫城主、美濃国大垣城主など。通称は勝三郎、紀伊守。
生涯

天文5年(1536年)、尾張織田氏家臣・池田恒利の子として尾張国で誕生[3][4][5]。母は養徳院[4]。父の恒利は早くに死去したとされる。母の養徳院は織田信長の乳母であり[6]、後に信長の父の織田信秀の側室となっている[要出典]。

幼少の頃から信長の小姓として織田氏に仕えた。弘治3年(1557年)、信長の弟で、謀反を企てた信勝を殺害した[3]永禄3年(1560年)5月の桶狭間の戦い[3][7]、美濃攻略[8]などで戦う。元亀元年(1570年)の姉川の戦いで活躍し、犬山城主となり1万貫を与えられた[7]。以後も比叡山焼き討ち長島一向一揆槙島城の戦い[8]などに参陣。天正2年(1574年)には武田勝頼に奪われた明智城の押さえとして、東濃小里城に入った[8]。恒興はそのまま織田信忠の付属であったが、天正6年(1578年)11月、有岡城の戦いに従軍[9]。天正8年(1580年)7月、摂津国尼崎城花隈城(花熊城)を落とす(花隈城の戦い[9][10]。戦後、伊丹城[注 1]を与えられた[11]。また、同年6月、荒木村重の配下だった中西新八郎らを与力とした[11]

天正10年(1582年)3月、織田・徳川連合軍による甲州征伐では二人の息子を出陣させ、本人は摂津の留守を守るよう信長から命じられた[12]。同年5月、備中高松城を攻撃中の秀吉の援軍に向かうことを命じられた(『信長公記』)[13][14]。同年6月2日本能寺の変にて信長が家臣の明智光秀に討たれる。6月11日中国攻めから引き返して尼崎に到着した羽柴秀吉と合流した[15]。このとき、豊臣秀次を恒興の婿に、次男輝政(照政)を秀吉の養子とすることを約束した[16]。また、剃髪し、勝入と号した[16][4]山崎の戦いでは兵5,000を率いて[注 2]右翼先鋒を務めて光秀を破り、織田家の宿老に列した。

織田家の後継を巡る清洲会議では、柴田勝家らに対抗して、秀吉・丹羽長秀と共に信長嫡孫の三法師(織田秀信)を擁立した。領地の再分配では摂津国大坂尼崎兵庫12万石を獲得した(『太閤記』)[18]。恒興は大坂に移り、元助は伊丹に、輝政は尼崎に入った(『池田家譜』など)[18]。天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いには参戦していないが、同年5月、美濃国内にて織田信孝の旧領13万石を拝領し大垣城に入った[16][4][19]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:40 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef