池田屋事件
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このページのノートに、このページに関する質問があります。(2022年1月)
質問の要約:殉難七士という呼称について

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池田屋事件
池田屋跡(2010年4月)
場所京都三条木屋町
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度0分32.2秒 東経135度46分11.6秒 / 北緯35.008944度 東経135.769889度 / 35.008944; 135.769889座標: 北緯35度0分32.2秒 東経135度46分11.6秒 / 北緯35.008944度 東経135.769889度 / 35.008944; 135.769889
日付元治元年6月5日1864年7月8日
概要旅籠の池田屋で会合中の長州藩土佐藩肥後藩等の尊王攘夷志士新選組が殺傷、捕縛。
原因古高俊太郎自白による京都放火計画等の発覚(異説あり
攻撃手段
攻撃側人数一覧
死亡者一覧
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池田屋事件(いけだやじけん)は、幕末元治元年6月5日1864年7月8日)に、京都三条木屋町(三条小橋)の旅籠・池田屋に潜伏していた長州藩土佐藩などの尊王攘夷志士を、京都守護職配下の治安維持組織である新選組が襲撃した事件。

池田屋の変[1]、池田屋事変、池田屋騒動ともいわれている。近藤勇は書面で洛陽動乱と名づけている。
経緯古高俊太郎邸跡(京都市下京区西木屋町四条上る)

幕末京都政局の中心地として、尊王攘夷(尊攘)・勤王などの各種政治思想を持つ諸浪士が潜伏し、活動していた。会津藩薩摩藩による「八月十八日の政変」で長州藩が失脚し、朝廷では公武合体派が主流となっていた。尊攘派が勢力挽回を目論んでいたため、京都守護職新選組を用いて、京都市内の警備や捜索を行わせた。

5月下旬ごろ、新選組諸士調役兼監察の山崎丞島田魁らが、四条小橋上ル真町で炭薪商を経営する枡屋喜右衛門(古高俊太郎)の存在を突き止め、会津藩に報告。捜索によって、武器や長州藩との書簡などが発見された。

元治元年(1864年) 6月5日早朝、古高を逮捕した新選組は、土方歳三拷問により古高を自白させた。自白内容は、「祇園祭の前の風の強い日を狙って御所に火を放ち、その混乱に乗じて中川宮朝彦親王を幽閉、一橋慶喜松平容保らを暗殺し、孝明天皇を長州へ動座させる(連れ去る)」というものであった。しかし、自白したのは自分の本名が古高俊太郎であることのみ、という説もあり、古高について述べられた日誌には自白内容の記述がされていないことから自白は本名のみであった可能性も高い。

これにより、尊攘派の浪士らが時をおかず会合を行うとみた新選組は、会津藩に報告のうえ徹底した市中探索を提案。5日夕刻、会津藩の援軍を待たず単独で三条?四条方面の捜索を開始した。
戦闘京都市 池田屋跡
2005年時点ではパチンコ屋だった)池田屋跡
2009年9月現在、居酒屋となっている)

(22時ごろ)すぎ、近藤隊は池田屋で謀議中の尊攘派志士を発見した。近藤隊は数名で突入し、真夜中の戦闘となった。20数名の尊攘派に対し当初踏み込んだのは近藤勇沖田総司永倉新八藤堂平助の4名で、残りは屋外を固めた。屋内に踏み込んだ沖田は奮戦したが、戦闘中に病に倒れ戦線から離脱した。また1階の藤堂は油断して鉢金を取ったところで額を斬られ、血液が目に入り戦線離脱した。

襲撃を受けた宮部鼎蔵ら志士たちは応戦しつつ、現場からの脱出を図った。裏口を守っていた安藤早太郎奥沢栄助新田革左衛門達のところに土佐藩脱藩・望月亀弥太ら浪士が脱出しようと必死で斬りこみ逃亡。これにより奥沢は死亡し、安藤・新田も1か月後に死亡した。望月は負傷しつつも長州藩邸付近まで逃げ延びたが、追っ手に追いつかれ自刃した。同じく戦闘の末に脱出に成功した土佐藩・野老山吾吉郎の調書が、2009年に高知県が購入した土佐京都藩邸資料(高知県立坂本龍馬記念館蔵)から見つかり、事件前後の様子が明らかとなった。太刀や袴を失い、同僚の石川潤次郎が現場で闘死していたことにも気づいていなかったことから戦闘の激しさが偲ばれる。

新選組側は一時は近藤・永倉の2人となるが、土方隊の到着により戦局は新選組に有利に傾き、方針を「斬り捨て」から「捕縛」に変更。9名討ち取り4名捕縛の戦果を上げた。会津・桑名藩の応援は戦闘後に到着した。

この戦闘で数名の尊攘派は逃走したが、続く翌朝の市中掃討で会津・桑名藩らと連携し、20名あまりを捕縛した。この市中掃討も激戦となり、会津藩は5名、彦根藩は4名、桑名藩は2名の即死者を出した。

その後、新選組は、夜のうちに帰ると闇討ちの恐れがあるために夜が明けるまで待機し、翌日の正午壬生村の屯所に帰還した。沿道は野次馬であふれていたという。

桂小五郎(のちの木戸孝允)は、会合への到着が早すぎたため、一旦池田屋を出て対馬藩邸大島友之允と談話しており難を逃れた。談話中に外の騒ぎで異変に気づいた桂は、現場に駆けつけようとしたが、大島に制止されたため思い留まったと、桂の回想録『桂小五郎京都変動ノ際動静』には記されている。ただし、鳥取藩士・安達清風の日記によれば、大島は事件前の5月28日7月1日)に京都を離れ、6月5日(7月8日)の当日には江戸におり、6月13日7月16日)になって事件のことを知ったとされており、大島が桂を止めたというのは事実でない可能性がある[2]。それとは別に、京都留守居役であった乃美織江は、手記に「桂小五郎義は池田屋より屋根を伝い逃れ、対馬屋敷へ帰り候由…」と書き残しているが、それに先立って「桂小五郎が殺された」との誤報を藩に伝え藩内をさらに混乱させたこともあり、また池田屋から対馬藩邸まで逃げられるような屋根が池田屋に無いなどの点から、乃美の記述は信用できないという指摘もある。


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