池田大作
2010年撮影
肩書き創価学会名誉会長
創価学会インタナショナル会長
創価大学名誉博士・名誉教授
準学士(富士短期大学)
(詳しくは#顕彰を参照。)
別名山本伸一、法悟空
個人情報
生誕 (1928-01-02) 1928年1月2日
日本 東京府荏原郡入新井町
(現在の東京都大田区大森付近)
死没 (2023-11-15) 2023年11月15日(95歳没)
日本 東京都新宿区
宗教創価学会
配偶者妻・池田香峯子
子供長男・池田博正
二男・池田城久
三男・池田尊弘
出身校富士短期大学卒業
別名山本伸一、法悟空
地位
任期1960年5月3日 - 1979年4月24日
地位第3代 創価学会会長
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池田の署名池田が会長を務めた創価学会の三色旗
青は「平和」、黄は「栄光」、赤は「勝利」を表すとされる。池田が会長であった、創価学会インタナショナルの八葉蓮華章入り三色旗
池田 大作(いけだ だいさく、1928年〈昭和3年〉1月2日 - 2023年〈令和5年〉11月15日[1])は、日本の宗教家、作家。創価学会名誉会長。
創価学会会長(第3代)、創価学会インタナショナル(SGI)会長などを歴任[2]。山本 伸一や法悟空のペンネームで作家活動も行っていた。
来歴
1949年まで19歳の大作
1928年1月2日、東京府荏原郡入新井町(現在の東京都大田区大森北)[3][4][5]に誕生[6][7][8]。1940年3月、尋常小学校卒業の後、兄が勤めていた「新潟鐵工所」に就職[5]。1945年8月、肋膜炎を患い茨城県の結核療養所へ入院するための順番待ちをしていた中で終戦を迎える[6]。同年9月、新橋にある昭文堂印刷で文選工をする傍ら、私立の東洋商業学校(現、東洋高等学校)に編入[3]。1946年、東京都大田区森ヶ崎にある協友会に加入[注釈 1][9]。昭文堂印刷退社後、京急蒲田駅裏にある中小企業の組合蒲田工業会(現:「蒲田工業協同組合」)に勤務[注釈 2]。1947年3月、東洋商業学校を卒業。同年8月14日 小学校時代の同級生の女性から「仏教や哲学のいい話がある」と誘われ座談会に出席。戸田城聖の御書講義、小平芳平の折伏を受け、入信を決意し、同年8月24日、創価学会に入信手続きを行った[9][10]。1948年、大世学院(後の東京富士大学短期大学部)の政経科夜間部に入学。1949年1月3日、日本正学館に入社[6]。少年雑誌『冒険少年』(同年8月に『少年日本』と改題)の編集に携わる。同年5月、日本正学館編集長に就任[3]。同年10月、東京建設信用組合に入社。 1950年10月、大蔵商事(現:日章)に異動[注釈 3]。1951年5月3日、戸田が創価学会の第2代会長に就任。同年5月、蒲田支部大森地区の地区委員に任命される。同年7月、青年部(男子部)が結成され、第1部隊長に就任。1952年3月、参謀室長に就任。5月3日、白木香峯子と結婚[3]。1953年11月25日、長男博正の誕生を期に、正式に「太作(たいさく)」から「大作(だいさく)」に改名[3]。1954年3月30日、青年部参謀室長に任命[3]。同日 設置された「情報部」最高顧問に就任[3]。この頃に大蔵商事を離職[3]。同年12月3日、新設された渉外部長を兼任。 1957年7月4日、参議院大阪府選挙区の補欠選挙において、一部の創価学会員が候補の名前が記されたタバコを配布[11]。この違反行為を池田が指示もしくは黙認したという事実はないにもかかわらず[12]、公職選挙法違反(買収)の疑いで逮捕、大阪東警察署と大阪拘置所に勾留された。詳細は「大阪事件_(創価学会)#概要」を参照 同年7月29日、創価学会幹部45人と共に起訴される。後に検察官より禁固10か月の求刑を受ける[13]が、後に池田の無罪が確定する[14]。 1958年4月2日、戸田が死去(58歳没)。同年6月、新設された総務を青年部参謀室長と兼任[15]。1959年6月30日、青年部参謀室長を辞任し参謀室の北条浩、龍年光と共に創価学会理事に就任[15]。
1950年代
1960年代「折伏大行進#歴史」も参照1962年頃岐阜県岐阜市にて(1960年代)