池田厚子
[Wikipedia|▼Menu]

池田 厚子
(厚子内親王)
池田家
1952年(昭和27年)頃
続柄昭和天皇第4皇女子

全名池田 厚子(いけだ あつこ)
称号順宮(よりのみや)
身位内親王降嫁
敬称殿下 → 降嫁
お印菊桜[1]
出生 (1931-03-07) 1931年3月7日(93歳)
日本 東京府宮城内産殿
配偶者池田隆政1952年 - 2012年
父親昭和天皇
母親香淳皇后
栄典勲一等宝冠章

役職伊勢神宮祭主1988年 - 2017年
日本赤十字社岡山県支部有功会名誉会長
テンプレートを表示

池田 厚子(いけだ あつこ、1931年昭和6年〉3月7日 - )は、日本の元皇族神社本庁総裁で、旧岡山藩池田家第16代当主池田隆政勲等勲一等

皇籍離脱前の身位内親王で、皇室典範における敬称殿下。旧名、厚子内親王(あつこないしんのう)、は厚子(あつこ)、御称号は順宮(よりのみや)、お印菊桜[1][2]であった。伊勢神宮祭主1988年 - 2017年)。

昭和天皇香淳皇后の第4皇女子。第125代天皇・明仁上皇)、常陸宮正仁親王の姉。

第126代天皇・徳仁今上天皇)、秋篠宮文仁親王の伯母。
略歴
生い立ち1937年(昭和12年)、呉竹寮の姉妹:左から和子内親王成子内親王、厚子内親王

1931年昭和6年〉3月7日午後0時2分、昭和天皇香淳皇后の第4皇女(第4子)として誕生[3]。御七夜3月13日午前9時に浴場の儀、午前11時に侍従長鈴木貫太郎が遣わされて命名の儀が執り行われ[4]、「順宮厚子(よりのみや あつこ)」と命名された[5]

学齢期以降、両親の元を離れ呉竹寮で姉妹と共に養育される。学習院初等科女子学習院(在学中に新学制により学習院女子中等科学習院女子高等科となる)を経て、学習院女子短期大学文科に入学。2年次に家庭生活科に転科し、同科を卒業。なお学習院時代の同窓生に久我美子[注釈 1]がいる。

この間、弟継宮明仁親王(第125代天皇、現上皇)の家庭教師であった米国人作家E・G・ヴァイニング夫人から、学校の授業だけでなく、英語の教育を受けた。ヴァイニング夫人は、学校の授業で生徒たちに英語名を与えており、厚子内親王の英語名は『パトリシア』だった[7]。ヴァイニング夫人は、女子高等科1年生頃の厚子内親王の学級で、初めて授業をしたとき、一目で内親王だと分かったとしたうえで、その様子を次のように記している。(引用註:一目で分かった理由は)皇太子殿下に似ておられたし、いかにも幸福そうでいらっしゃったからである。服装は他の生徒と同じであったが、着ておいでになる紺のサージもいたんでいず、靴も立派だった。髪は捲毛で、人並みすぐれて肌が白く、内気な、真面目な微笑をなさる方であった。科学とバレーボールが好きで、着物のことにはあまり関心をもっておられなかった。 ? E・G・ヴァイニング、文春学藝ライブラリー『皇太子の窓』 p.78-79
婚礼前後1952年(昭和27年)10月10日、結婚後に取材を受ける池田夫妻

1951年(昭和26年)春、中国・四国地方を訪問した際に岡山県岡山市池田動物園や池田牧場を視察した[8]。その後、後楽園荒手茶寮にて動物園と牧場の経営者である池田隆政と面会の機会が設けられ、隆政の精悍な姿が厚子内親王に強い印象を与えた[8]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:53 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef