凡例池田元助
池田之助(元助)像[注釈 1]
(岐阜県揖斐郡本郷村龍徳寺所蔵)
時代戦国時代 - 安土桃山時代
生誕永禄2年(1559年)[2]または7年(1564年)[3]
死没天正12年4月9日(1584年5月18日)
改名勝九郎(幼名)、池田元助
別名之助、通称:庄九郎、紀伊守
戒名正宗院顕功永節禅定門[4]
墓所龍徳寺(岐阜県揖斐郡池田町本郷)
主君織田信長→信雄→羽柴秀吉
氏族池田氏
父母父:池田恒興、母:善応院(荒尾善次の娘)
兄弟元助、輝政、長吉、長政、安養院(森長可室、後に中村一氏室)、若政所(豊臣秀次正室)、天球院(山崎家盛正室、後に離縁)、慶雲院(浅野幸長正室)、女(織田勝長正室)[5]
異父姉:七条(織田信時の娘、飯尾敏成正室、後に下間頼龍正室)
妻正室:斎藤義龍の娘[4][6]/ 伊勢貞良(伊勢兵庫某[2])の娘[注釈 2]
継室:塩川長満の娘[2]
子由之、元信
池田 元助(いけだ もとすけ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。池田恒興の長男で輝政の兄。諱は之助(ゆきすけ)ともいう[注釈 4]。後室の塩川長満の娘は、織田信忠の妻と姉妹で、三法師は外甥にあたる。 幼少より織田信長に仕えた。史料に初めて登場するのは天正6年(1578年)12月の有岡城攻めで、父・恒興と共に倉橋郷の砦に入った。 天正8年(1580年)の荒木村重討伐では父や弟の輝政と共に活躍し、花隈城の戦いで荒木元清を破り、信長からその功績を賞賛されて名馬を賜った。 天正9年(1581年)2月28日、父の名代として輝政と共に馬揃えに摂州衆として参加。以後、父を離れて単独で活動するようになり、池田氏の大将として振る舞う。
略歴
天正10年(1582年)、明智光秀の与力衆の1つとして甲州征伐に出征した。続く中国遠征でも明智与力として準備を命じられていたが、6月2日にその光秀が謀反を起こして、本能寺の変で信長が横死する。
6月11日、中国大返しで姫路城に戻った秀吉と会した父・恒興は、次男輝政も秀吉の養子にするという約束をして会盟した。さらに父は剃髪して勝入と号し、これに従って元助は紀伊守の称を継承した[16]。共に秀吉に従って山崎の戦いで明智光秀を破った。詳細は「山崎の戦い」を参照
清洲会議により、父は大坂・尼崎・兵庫の12万石を与えられたので、父が大坂に移って、代わりに元助が伊丹城に入り、弟・輝政が尼崎城に入った。.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}}(左)池田元助戦死の地とされる庄九郎塚[注釈 5]
(右)龍徳寺境内の池田元助の墓[注釈 6]
織田家の内紛でも父に従い、織田信雄に属して秀吉の味方となって、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いに参戦。父が美濃大垣城主となると、岐阜城主となった。秀吉と信雄の関係が悪化すると、今度は秀吉側につき、天正12年(1584年)、長久手の戦いで三河を奇襲する部隊の一翼を担ったが、4月9日、徳川家康・井伊直政・織田信雄らが率いる軍の要撃を受けて、父や義弟の森長可共々討死した。戦死の地と伝わる場所には「庄九郎塚」が建てられている[17]。詳細は「小牧・長久手の戦い」を参照
元助の享年26とされる[2]が、『信長公記』では、天正8年(1580年)時点の記述で「元助、照政(輝政)兄弟、共に年齢15、16」とあり、兄弟の年齢差はあまり開いておらず[注釈 7]、元助の没年齢は実際には20代前半であった可能性もある[13]。
脚注
注釈[脚注の使い方]^ 同肖像画は二百回忌に合わせて子孫により制作されたものである[1]。
^ 池田恒興の没後350周年で池田氏系図や池田氏家譜などの池田氏の資料をもとに書かれた『池田勝入斎信輝公小伝』では義龍の娘とある[4]。『尾張群書系図部集』でも義龍の娘[6]。他方『寛政重修諸家譜』では、伊勢兵庫某の娘が長男の由之の母となっているが[2]、伊勢貞良の項目には妻や娘については何も書かれていない[7]。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}『寛永諸家系図伝』では正室は斉藤山城守女孫(斎藤道三女孫)とある[要出典]。女孫とは「娘の産んだ孫。また、子の娘。孫娘」を指す[8]。『戦国遺文 佐々木六角氏編』等に収録される「八〇一 六角承禎条書案」は、永禄3年(1560年)に承禎の嫡男である六角義治(義弼)と斎藤義龍の娘の縁組を承禎が止めようとする書状だが、これにはそれ以前にあった伊勢守(伊勢貞孝、貞良の父)と斎治(斎藤義龍)との間の縁組についても書かれていることから[9][10]、時期はわからないが、伊勢貞孝か貞良が、義龍の娘か妹を娶っていたことになる。