池波正太郎
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池波 正太郎
(いけなみ しょうたろう)
婦人生活社婦人生活』3月号(1961年)より
誕生1923年1月25日
日本東京府東京市浅草区
死没 (1990-05-03) 1990年5月3日(67歳没)
日本東京都千代田区神田和泉町三井記念病院[1]
職業小説家
国籍 日本
最終学歴下谷西町小学校卒業
ジャンル時代小説歴史小説
代表作『錯乱』(1960年)
『人切り半次郎』(1963年)
鬼平犯科帳』(1967年 - 1989年)
剣客商売』(1972年 - 1989年)
仕掛人・藤枝梅安』(1972年 - 1990年)
真田太平記』(1974年 - 1982年)
主な受賞歴直木三十五賞(1957年)
吉川英治文学賞(1977年)
紫綬褒章(1986年)
菊池寛賞(1988年)
公式サイト池波正太郎公式サイト
池波正太郎公式facebook
ウィキポータル 文学
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池波 正太郎(いけなみ しょうたろう、1923年大正12年)1月25日 - 1990年平成2年)5月3日)は、戦後の日本を代表する時代小説歴史小説作家。『鬼平犯科帳』『剣客商売』『仕掛人・藤枝梅安』『真田太平記』など、戦国江戸時代を舞台にした時代小説を次々に発表する傍ら、映画評論家としても著名であった。映画ではとりわけフランス映画の名作、とりわけフィルム・ノワールを好み、監督ではジュリアン・デュヴィヴィエ俳優ジャン・ギャバンを敬愛している他、美食家食通)として多くのエッセイを著している。[2]
略歴
生い立ち

1923年大正12年)1月25日東京市浅草区聖天町(現:東京都台東区浅草7丁目)に生れる。父・富治郎は日本橋の錦糸問屋に勤める通い番頭、母・鈴は浅草の錺職・今井教三の長女で、正太郎は長男であった。この年9月1日関東大震災が起こり、両親とともに埼玉県浦和に避難し引越、6歳まで同地に居住。1929年(昭和4年)、両親と共に下谷に戻る。正太郎は根岸小学校に入学する。商売不振だった富治郎は近親の出資により上根岸撞球場を開業するも、この年不和により両親は離婚した。

正太郎は母に引き取られ、浅草永住町の祖父の家に移り、学校は下谷の西町小学校(後の台東区立西町小学校。1998年に閉校)に転入した。祖父・今井教三は御家人の家に養子入りした職人気質・江戸っ子気質の人物で、忙しい母親に代わって正太郎をかわいがった。この時期、母は働きながら今井家の家計を支え、一時正太郎を預けたまま再婚をしたが、不縁となり、実家に戻った。この二度目の結婚によって、正太郎には異父弟が一人できた。小学校時代の正太郎は図画を得意とし、将来は日本画鏑木清方の弟子となることを夢見る一方、チャンバラものの剣劇映画と少年向け小説を大いに好み、小遣い銭で買い食いを楽しんでいた。

1935年昭和10年)、西町小学校を卒業。担任教師は進学を勧めたが、家庭の事情により奉公に出た。親戚の伝手によって最初は株式現物取引店・田崎商店に出るが、半年あまりでペンキ屋に奉公を変わり、さらにそこも退いて株式仲買店・松島商店に入り、以後、1942年(昭和17年)に国民勤労訓練所に入所するまで、同店で勤務す。チップや小遣い銭を元手に内緒の相場に手を出し月給を上回る収入を得ていた。兜町時代の正太郎はこれを「軍資金」として読書、映画、観劇にはげみ、登山や旅行を楽しみ、剣術道場にも足を運ぶ一方、諸方を食べ歩き、吉原でも遊蕩した。特にこの時期、読書・映画への興味が深まったことはもとより、歌舞伎新国劇新劇などの舞台を盛んに見物し、歌舞伎への理解を深めるために長唄まで習っていた。
終戦まで

1941年(昭和16年)12月、太平洋戦争が開戦、翌年に勤労動員により、松島商店を退職し国民勤労訓練所に入所。同年には芝浦萱場製作所に配属され、ここで旋盤機械工としての技術を学んだ。所長の意向ではじめ経理を担当する予定であったものが、池波本人のたっての望みで現場担当となり、上司の丁寧な指導もあって数か月間で技術を習熟した。この間には「婦人画報」の朗読文学欄にスケッチなどを投稿、また「休日」で選外佳作(1943年5月号)、「兄の帰還」で入選(同7月号)、「駆足」で佳作入選(同11月号)、「雪」で選外佳作(同12月号)。「兄の帰還」で賞金50円を得て、これが自身初めての原稿収入となった。

1943年(昭和18年)の冬には岐阜太田の工場に転勤となり、当地で旋盤工の教育係を兼ねた。翌年元日には名古屋の製鋼所に徴用されていた父と久しぶりに再会。休日には中部地方の山をめぐり、東京に足を伸ばして歌舞伎を見物したが、前年、成年に達した正太郎のもとにも、ついに召集令状が来て、工場を退職。

1944年4月、横須賀海兵団に入団。間もなく武山海兵団内自動車講習所に入所。しかし、教官の暴力的な教えかたや物資横流しに反感を持ち、ことあるごとに反抗的な態度を取り、繰返し制裁を受け、同所を修了しないまま退所。横浜磯子八〇一空に転属となり、通信任務(電話交換手)を担当。1945年(昭和20年)3月10日には東京大空襲で浅草永住町の家が焼失。水兵長に昇進し米子美保航空基地に転属。同地で電話交換室の室長となった。戦況が悪化し、全国的に空襲の危機にさらされるなか、米子では比較的平穏な日々がつづき、この時期、正太郎は余暇に俳句短歌を作ることに熱中した。8月15日敗戦によるポツダム進級二等兵曹、残務処理を終えて8月24日に帰京した。
劇作家として

1945年10月には、帝国劇場六代目尾上菊五郎の『銀座復興』を観劇した。1946年(昭和21年)、占領下の東京都職員となり下谷区役所に勤務、学生アルバイトを伴い各所にDDTを撒布してまわることだった。空襲によって家を失っていたうえに、借家の家主が疎開先から帰ってきたため、役所内に寝泊りして作業に没頭する一方、この年に創設された読売新聞演劇文化賞に向けて、戯曲「雪晴れ」を執筆。同作品は入選第四位となり、新協劇団で上演された。区役所勤務を継続しつつ、翌年「南風の吹く窓」で同賞佳作入選を果たした。

1948年(昭和23年)には習作を手に初めて長谷川伸を訪問。翌年より本格的に劇作を師事し、門下の批評会「二十六日会」にも参加した。この前後の習作に『牡丹軒』『手』『蛾』など。『手』は新国劇での上演が検討された。1950年(昭和25年)、片岡豊子と結婚し、借家して所帯を持ったが、間もなく申しこんでいた住宅抽選に当選し、新国劇で上演された『鈍牛』の上演料などで新居を建てた。


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