池永正明
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池永 正明シーズン20勝を挙げて胴上げされる池永
(1965年10月23日)
基本情報
国籍 日本
出身地山口県豊浦郡豊北町(現:下関市
生年月日 (1946-08-18) 1946年8月18日
没年月日 (2022-09-25) 2022年9月25日(76歳没)
身長
体重175 cm
77 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション投手
プロ入り1965年
初出場1965年4月15日
最終出場1970年5月2日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


下関商業高等学校

西鉄ライオンズ (1965 - 1970)

監督歴


山口きららマウントG

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■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

池永 正明(いけなが まさあき、1946年8月18日 - 2022年9月25日)は、日本プロ野球選手山口県豊浦郡豊北町(現:下関市)出身。

高校卒業後に西鉄ライオンズへ入団し、5年間で99勝を挙げて通算300勝の記録達成も射程圏内と言われたが、1970年の「黒い霧事件」にて八百長が認定され、永易将之森安敏明らと共に永久追放処分とされた。
経歴
プロ入りまで

1946年8月18日に、漁師で宮相撲の横綱を張ったこともある父親のもとに生まれる[1]。中学生の頃から100メートル競走で11秒8を記録し、全日本中学校通信陸上競技大会の三種競技(100メートル競走・走高跳砲丸投げ)で日本一に輝いたという[2]

下関商業高等学校では投手として3回の甲子園出場を果たす。1963年、2年生時の春の選抜では、北海道代表として春夏通じて初めて決勝に進んだ北海高と対戦し、相手エース吉沢勝を打ち崩してチーム初優勝を遂げた[3]。さらに同年夏の選手権も決勝に進み、和田徹を打の主軸とする明星高との対戦は1点を争う接戦となるが、初回の2失点を逆転できず準優勝に終わった[4]。8月末から和田、小川亨らとともに全日本高校選抜の一員としてハワイ遠征に参加した。3年生となった1964年春の選抜は、初戦となった2回戦でエース橋本孝志を擁する博多工に敗れ[3]、同年夏は県大会長門地区予選の2回戦で、亀井進を擁する早鞆高に敗退し甲子園出場は叶わなかった。なお早鞆高はそのまま第46回全国高等学校野球選手権大会に出場を果たし、準優勝と健闘している。
西鉄のエースとして活躍

池永は、読売ジャイアンツ南海ホークス西鉄ライオンズから注目を集めるなど争奪戦となり、なかでも巨人や南海は監督の川上哲治鶴岡一人が自ら交渉に乗り出す[5]が、1965年に、のちにプロゴルファーへ転向する「ジャンボ尾崎」こと尾崎正司と共に西鉄ライオンズへ入団する。

1年目の1965年は開幕5試合目から先発を任され、20勝10敗、防御率2.27(リーグ5位)の好成績を挙げて新人王を獲得、故障で中継ぎへ配置転換された稲尾和久に代わるエースとして活躍した。同期入団の尾崎は池永の姿を見て「あんな凄いヤツがいたんじゃ、オレが野球で成功するのは無理だと思った」と語っており、野手転向を考えた後にプロゴルファーへの転身を決意するきっかけになったという。一方で池永も、新人王受賞時には「自分は野球選手以外の職業になることは考えたことが無いし、これが天職」と述べている。1966年はリーグ最多の36試合に先発して15勝14敗。1967年は23勝14敗で最多勝利のタイトルを獲得する。1968年も23勝13敗、防御率2.45(リーグ3位)と好成績を残す。新人から5年連続でオールスターゲームに出場し、セントラル・リーグを無失点に抑えた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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