池上雪枝
[Wikipedia|▼Menu]

いけがみ ゆきえ
池上 雪枝

生誕大久保 雪枝
(1826-03-09) 1826年3月9日
摂津国
死没 (1891-05-02) 1891年5月2日(65歳没)
墓地栗東寺大阪府大阪市北区
記念碑池上雪枝感化院跡(大阪府大阪市北区天満
国籍 日本
時代明治
著名な実績日本で最初の感化院(児童自立支援施設)とされる池上感化院の設立
影響を受けたもの津崎矩子
影響を与えたもの小林佐兵衛
任期1883年 - 1888年
後任者小林佐兵衛
宗教神道
家族村上華岳(孫)
テンプレートを表示

池上 雪枝(いけがみ ゆきえ、1826年3月9日文政9年2月1日〉 - 1891年明治24年〉5月2日[1][2])は、日本社会事業家[2]。日本で最初の感化院(児童自立支援施設)とされる池上感化院の設立者[1]。孫は日本画家の村上華岳[1][3]
経歴

摂津国(後の大阪府[1])で誕生した[2]。旧姓は大久保[1]。幕府に対峙する勤皇派の活動家の生まれで[4]、父は武芸と医学に秀でた人物であり[5][6]、雪枝もまた、わずか4歳にして狂歌を詠むなど[7][6]、幼少時より「天才少女」と評判であった[8][9]。また、天候の変化を予測する才覚にも長けていた[6][10]

この才覚を京都近衛家の津崎矩子(村岡局)に気に入られたことで、7歳のときに近衛家に預けられ[6][11]、20年間にわたって、当時の女性としては最高の学問と教養を身につけた[9]。村岡局は公私にわたる師匠となり[12]、尊皇運動と身近に接しながら成長したことで、その社会思想は後の生涯に大きな影響を与えた[9][11]

1852年(嘉永5年)に[6]、商家の息子と結婚した[4][13]。結婚後の姓「池上」は、生家の屋号の「池山」と夫の姓の「上谷」を合わせたものである。結婚後は五男二女に恵まれた[14]

夫が事業に失敗したため、若い時分に身につけていた易学をいかして、易断で生活を支えた[15]。1883年(明治16年)には大阪に神道祈祷所を設置して、神道の布教を行った[1][2]
感化事業

雪枝は易断を通じて、多くの苦難を抱える人々と接することで、明治維新による当時の社会の混乱、貧困、家族の離散などがもとで人々の精神が荒廃し、非行や犯罪のもととなっていると考え、過ちを犯した若者の救済と再教育を天職と考え始めた[9]

60歳に近い頃、感化事業の開始を決意した[9]。1883年(明治16年)、大阪北区の雪枝の自宅に「池上感化院」が開設された[15][16]。翌1984年(明治17年)8月に感化事業が公式発表され[16][17]、同1984年9月には、収容児の増加により手狭になったことで、感化院は松ヶ枝町に移転され[16][17]、授産所も建設した[9]

内務省監獄局の官吏であった坂部寔は、かつて感化院の設立を企画しながらも挫折した経緯があったことから、雪枝の開設時に「カンカインノカイインシキヲシュクス」と祝電を送った[15][18]。坂部はその後も雪枝に信頼を寄せて、多忙の合間を縫って頻繁に雪枝のもとを訪れ、助言を与え、激励した[15]。社会事業家の原胤昭もまた感化教育の熱心な推進者であり[19]、池上感化院を何度か訪問した[20]

感化院の児童たちは「生徒」と呼ばれ、教育が熱心に行われた。雪枝は、生徒1人1人の性格と適性を判断し、各自に適した教育、技術を与えた。特に英語教育を重視し、キリスト教の教師との親交を持って、国際感覚を養うことを重視した[9]。また技術面においては、洋傘、石?、ステッキの製造など[21]、新たな分野での職業教育を行い、自立の機会を与えた[9]。感化院からは多くの更生者が生み出され[22]、中には陸軍技師としてイギリスで活躍して勲四等を授けられた者、事業に成功して多額納税者になった者もいた[20]

雪枝は独力で事業の成就を願い、広く地域の人々への一般教育を図ろうと、雑誌「雪枝草子」発行など努力した[9]。しかし雑誌発行は経営難のために、3か月で廃刊に至った[4]
感化事業の衰退 - 晩年雪枝の遺書

1886年(明治19年)には感化院もまた、設立からわずか約3年にして経営難に陥った[23]。施設運営の経費は予想以上であり、授産事業で運営を支えようとしても、到底不足であった[23]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:45 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef