池上本門寺
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池上本門寺
大堂(祖師堂)
所在地東京都大田区池上一丁目1番1号
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度34分44秒 東経139度42分18.6秒 / 北緯35.57889度 東経139.705167度 / 35.57889; 139.705167 (池上本門寺)座標: 北緯35度34分44秒 東経139度42分18.6秒 / 北緯35.57889度 東経139.705167度 / 35.57889; 139.705167 (池上本門寺)
山号長栄山
院号大国院
宗派日蓮宗
寺格大本山
本尊三宝尊
創建年1282年(弘安5年)
開山日蓮
開基池上宗仲
正式名長栄山大国院本門寺
札所等日蓮聖人霊跡
東国花の寺百ヶ寺東京4番
京浜四大本山
文化財木造日蓮聖人坐像(重要文化財)ほか
法人番号1010805000093
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池上本門寺(いけがみほんもんじ)は、東京都大田区池上にある日蓮宗の大本山。

寺格は大本山、山号を長栄山、院号を大国院、寺号を本門寺とし、古くより池上本門寺と呼ばれてきた。また日蓮入滅の霊場として日蓮宗の十四霊蹟寺院のひとつとされ、七大本山のひとつにも挙げられている[注釈 1]
歴史

弘安5年(1282年9月8日、病身の日蓮身延山を出て、湯治のために常陸茨城県)へ向かう。9月18日に武蔵国池上郷(東京都大田区池上)の池上宗仲に到着。生涯最後の20数日間を過ごすこととなる。同年同月に、池上氏館の背後の山上に建立された一宇を日蓮が開堂供養し、長栄山本門寺と命名したのが池上本門寺の起源という。

同年10月13日に日蓮が没すると、池上宗仲は法華経の字数(69,384)に合わせて六万九千三八四坪を寺領として寄進し寺院の基礎が築かれ、以来「池上本門寺」と呼びならわされている[1]。その後は日蓮の弟子日朗が本門寺を継承した。

池上氏館の居館部分は本門寺西側の谷の一帯にあったと考えられており、現在は、1276年(建治2年)建立された池上氏館内の持仏堂(法華堂)を起源とする本門寺の子院・大坊本行寺の境内となっている。本門寺は、鎌倉・室町時代を通じて関東武士の庇護を受け、近世に入ってからも加藤清正紀伊徳川家等諸侯の祈願寺となり栄えた。

江戸時代不受不施派を奉ずる本門寺は、身池対論を経て久遠寺の傘下に収まった。第二次世界大戦空襲によって五重塔、総門、経蔵、宝塔を除く堂宇を焼失したが、戦後順次復興した。

江戸自慢三十六興・池上本門寺会式 三代歌川豊国・二代歌川広重筆

江戸近郊八景・池上晩鐘 歌川広重

池上での入滅図

伽藍・境内
総門
元禄年間(17世紀末?18世紀初め)の建立と伝える。「本門寺」と刻された
扁額本阿弥光悦の筆によるもので、現在掲げられている額は複製。オリジナルは霊宝殿に収蔵され常設展示されている。
此経難持坂
池上本門寺の表参道96段の石段坂。石段は、慶長年間に加藤清正が寄進したものと伝えられている。妙法蓮華経(法華経)宝塔品の偈文の96文字にちなんで石段を96段とし、偈文の文頭の文字をとって坂名としている。
仁王門
大堂正面に建つ二重門。旧国宝の山門は、1945年(昭和20年)空襲で焼失。仁王門として1977年(昭和52年)に再建された。門内には彫刻家圓鍔勝三が、アントニオ猪木をモデルに制作した仁王像が安置されたが、近年修理を機に本殿内に移設。新たに仏師原田佳美作の仁王像が2001年(平成13年)10月に開眼供養が行われ奉られている。
日蓮像
仁王門手前の石段の脇に立つ。1983年(昭和58年)日蓮の700回忌に建立されたアルミニウム製の像である。彫刻家北村西望の作。ここにはもと明治時代の政治家の星亨の銅像があったが、戦時中の金属供出により撤去された。戦後になり星の遺族らが台座を寄付して日蓮像が建立された。
日朝堂
ここに祀られる日朝は身延山11世で、61歳の時に失明したが後に視力を回復したことから、眼病平癒、学業成就の利益があるとされている。以前はここで境内に居る鳩の餌を販売していたが、現在は東京都の指導により販売中止している。
鐘楼
現在の鐘楼は、1958年(昭和33年)の再建。旧梵鐘は、1647年(正保4年)加藤清正の娘で、徳川頼宣の室となった瑤林院が寄進したもので、旧鐘楼が空襲で焼失した際破損したため、現在は再建された鐘楼の脇に保存されている。
大堂
「祖師」すなわち
日蓮を祀ることから「祖師堂」ともいう。旧大堂は、本門寺14世日詔の時代の1606年(慶長11年)加藤清正が母の七回忌追善供養のため建立したが、1619年(元和5年)に焼失。1628年(寛永6年)本門寺復歴16世日樹の代に金1万両を用いてほぼ旧規模に再建された。1710年(宝永7年)再び焼失。本門寺24世日等時代の1723年(享保8年)8代将軍徳川吉宗の用材寄進により、規模を縮小の上再建された。この3代目の大堂は、1945年(昭和20年)4月の空襲により焼失。1948年(昭和23年)仮祖師堂と宗祖奉安塔を建設。その後、本門寺79世伊藤日定が中心となり全国檀信徒の寄進を受け、1964年(昭和39年)現在の大堂を再建した。この際仮祖師堂は取り壊され、宗祖奉安塔は経蔵を北側へ移動させた上でその南側隣に移築された(現在の霊宝殿の位置)。現在の大堂は、根崎建築設計事務所の設計による鉄筋コンクリート造で屋根は入母屋造。高さ27メートルの大建築である。第二次大戦の空襲で焼失した旧堂には本阿弥光悦の筆になる「祖師堂」の扁額が掲げられていた(戦災で焼失)。再建後は本門寺80世金子日威が揮毫した「大堂」の扁額がかかる。堂内中央の厨子には、日蓮聖人坐像、右には日輪聖人坐像、左には日朗聖人坐像を安置する。1966年(昭和41年)川端龍子による天井画「未完の龍」が描かれている。2005年(平成17年)4月から屋根瓦修復及び雨水漏水対策、耐震補強・火事対策等の工事が行なわれ、建物全体が足場で覆われていたが2006年(平成18年)4月に工事が完了した。
経蔵
空襲による焼失をまぬがれた建物の1つ。輪蔵形式の内部には回転する八角形の書架があり、天海版一切経が収められていた。現在は別途保管。1784年(天明4年)に建立。第二次大戦後、大堂再建に伴う旧宗祖奉安殿移設により、元の場所よりやや北側の現在地に移された。
五重塔
高さ31.8メートル。空襲による焼失をまぬがれた貴重な古建築の1つで、江戸幕府2代将軍徳川秀忠の乳母である岡部局(大姥局)(正心院日幸尼)の発願により、1608年(慶長13年)に建立され、後に現在の位置へ移築された。全面ベンガラ(赤色塗料)塗り、屋根は初層と二重は本瓦葺き、三重以上は銅板葺きとする(当初はすべて本瓦葺き)。建築様式は初層は和様、二重から上は禅宗様になる。初層の各面は中央を桟唐戸、両脇間には格狭間(ごうざま)形の装飾を入れ、蟇股(かえるまた)には十二支の彫刻を入れる[2]。1997年(平成9年)10月から2002年(平成14年)3月にかけて国庫補助事業として解体修理が行われた。基礎部分の石段からはホンモンジゴケというコケの一種が見つかっている。五重塔下付近、東京国立博物館蔵・池上本門寺経筒(藤原守道作)が出土している。
宝塔
境内西方、日蓮の荼毘所と伝えられる場所に建つ。新編武蔵風土記によると、この地にはかつては2間に3間の灰堂があり、当初、本門寺の開基檀越である池上宗仲が宝塔を作って、日蓮の遺灰を中に盛って奉安したと伝えられている。現存の宝塔は棟札(所在不明)抄により、1828年(文政11年)日蓮の550遠忌を記念し、犬山城主・成瀬氏らを本願主として再建された。作者は、小木新七その他。その後、1851年(嘉永4年)に修理されている。円筒形の塔身に宝形屋根を載せた宝塔形式の塔である。富山本法寺蔵・重要文化財の絹本着色法華曼荼羅図に見える多宝仏塔に類似しており、建立時代は新しいが、宝塔形式の木造塔で内部空間を有するものは他にほとんど類例がない。石造方形基壇および石造蓮台形台座の上に木造塔身が建つ。木造塔身の軸部は平面円形でやや伏鉢状をなし、側柱8本を円形に配し、内部には四天柱を立てている。伏鉢部の上に12本の側柱および四天柱を配して上層をなしている。塔身は赤漆塗りとし、宝形屋根は瓦棒銅板葺きとする。附(つけたり)指定の宝塔は初層四天柱の内に安置され、意匠は本塔に類似している[3]
本殿
本殿とは、本師(釈尊)のおわします殿堂との意味。1969年(昭和44年)に、戦災で焼失した釈迦堂を再建したもの。


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