この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
出典検索?: "江馬修"
江馬 修(えま しゅう、または えま なかし、1889年12月12日 - 1975年1月23日)は、日本の小説家。本名の読みは「なかし」で、筆名は「しゅう」とすることが多かったが、一定しない。 岐阜県高山市生まれ。画家を志して出奔し、横山大観の家に同居していたこともあるが、5日で帰郷。1906年[1]、斐太中学校中退。田山花袋の書生や小学校の代用教員、区役所の臨時雇いなどを経て、1911年、『早稲田文学』発表の「酒」でデビュー[2]。夏目漱石門下の阿部次郎らと交遊。このころ小宮豊隆の紹介で夏目漱石にも会っているが、デビュー作「酒」の題名に引っ掛けて「酒の作者か、酒だるの作者か知らないが、もっとこっち来給えよ」と茶化され、気分を害して漱石から距離を置いた[3]。 1911年頃、森田草平や生田長江から石川啄木の病が重いことを聞き、知り合いの医師に頼んで啄木とその一家のもとに往診させる[4]。啄木の没後、1920年には盛岡で啄木歌碑の建立を提案し、そのために募金講演会を開き、1922年に歌碑除幕を実現させた[5]。 その間、1916年、長編『受難者』がベストセラーとなって名を挙げる[6]。当時、江馬は人気作家の一人で、偽者が現れて女を騙したり金銭を詐取したりする事件が続発した[7]。島田清次郎は、江馬の『受難者』『暗礁』に霊感を受けて『地上』第一部を書いた[8]。 1926年以後ヨーロッパに渡り、帰国後、『戦旗』に属するプロレタリア作家として活動する。1929年、特高に逮捕され約40日間留置の後、起訴猶予処分となる[9]。1934年に飛騨高山へ戻り、郷土研究雑誌『ひだびと』を創刊し、赤木 清の筆名で考古学論文を執筆。この期間に蓄えた郷土史の知識に基づき、戦中から戦後にかけて長編『山の民
来歴