江藤慎一
[Wikipedia|▼Menu]

江藤 慎一中日時代(1959年)
基本情報
国籍 日本
出身地熊本県山鹿市
生年月日 (1937-10-06) 1937年10月6日
没年月日 (2008-02-28) 2008年2月28日(70歳没)
身長
体重178 cm
80 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション外野手一塁手捕手
プロ入り1959年
初出場1959年4月11日
最終出場1976年8月14日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


熊本県立熊本商業高等学校

日鉄二瀬

中日ドラゴンズ (1959 - 1969)

ロッテオリオンズ (1970 - 1971)

大洋ホエールズ (1972 - 1974)

太平洋クラブライオンズ (1975)

ロッテオリオンズ (1976)

監督歴


太平洋クラブライオンズ (1975)

日本野球体育学校
天城ベースボールクラブ


野球殿堂(日本) 殿堂表彰者
選出年2010年
選出方法競技者表彰
この表についてこの表はテンプレートを用いて表示しています。編集方法はTemplate:Infobox baseball playerを参照してください。

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

江藤 慎一(えとう しんいち、1937年10月6日 - 2008年2月28日)は、熊本県山鹿市出身[1]福岡県北九州市生まれ)のプロ野球選手捕手内野手外野手)・監督解説者

前妻は元宝塚歌劇団44期生の瀬戸みちる[2]。次女のはやせ翔馬[3]74期生。プロ野球選手、コーチ、慶大の監督を務めた江藤省三は実弟。
経歴
プロ入りまで

北九州で生まれたが、太平洋戦争による集団疎開で各地を転々とし、幼少時より新聞配達アイスキャンディー売りなどで家計を助けていた[1]八幡製鐵外野手を務めていた父から野球を教わり、捕手となる。小学4年次の1947年に母の郷里である山鹿へ引っ越す。中学進学後の1950年から本格的に野球を始め、4番・捕手として県大会に出場するなど活躍した。

中学卒業後の1953年熊本商業高校へ進学し、1年次の同年秋からレギュラーとしてチームを引っ張る。3年次の1955年には夏の甲子園県予選で、西園寺昭夫を擁する熊本工に敗れ、甲子園には出場できなかった。

1956年に高校を卒業すると、江藤は野球で身を立てようとしたが就職口がなく[4]日鉄二瀬濃人渉監督を訪ねた[4]。濃人はどうせ使い物にならないだろうと思い、形式的なテストだけやって追い返すつもりだったが、ファイトがありいい体つきをしていたことを評価[5]。新規採用は既に終わっていたところを、濃人は会社に臨時雇での採用を掛け合い、江藤はテスト入団を果たした[4]。入社後は毎日長時間の肉体労働をこなしたあと、練習に参加。濃人からは「野球で身を立てなければお前は横道にそれてしまう。どっちがいいんだ」と言われながら目茶苦茶しごかれ、江藤はこれに応えて厳しい練習に耐えたという。江藤は後年「濃人さんに巡り会っていなかったら、今ここにはいなかっただろう。それだけは自信を持って言える」と語っている[6]。江藤は入社直後は右方向しか打球が飛ばなかったが、濃人の指導によりきちっとしたスイングを身に付けた(チームメイトの古葉毅による)[7]。1956年から1958年まで都市対抗に3年連続出場を果たし、1957年大会では1回戦で鐘化カネカロンと対戦して決勝本塁打を放つ。この試合でチームメイトの村上峻介とバッテリーを組み、大会史上初の完全試合をアシスト。1958年の大会はエース・井洋雄の好投もあって決勝進出を果たすが、日本石油に敗れる。同年の産業対抗では決勝で日本ビールを降し、チームを初優勝に導いた[8]。他の同僚には吉田勝豊がいた。
中日時代

1959年に強肩・強打の捕手として中日ドラゴンズへ入団したが、後に古葉は「江藤は私と一緒の広島に入団すると思っていたが、中日は広島の2倍以上の契約を提示したため江藤は中日に入団した」と述べている[9]。契約金500万円、月給10万円であった。当時の中日は吉沢岳男が正捕手としての地位を確立していたため、杉下茂監督は前年引退した西沢道夫が守っていた一塁へと江藤をコンバート、最終的に外野を守らせる構想もあった[10]。4月15日の巨人戦(後楽園)では、1-4で3点差を追う9回表に伊藤芳明からプロ入り12打席目で初本塁打となる2ラン本塁打を放つ[11]。杉下は江藤を全130試合に起用し[10]、その内125試合は一塁手としての出場であった。新人ながら森徹の後の5番を打ち[10]、打率.281・15本塁打・84打点の好成績を挙げる。しかし、31本塁打を放った桑田武大洋)がいたため、新人王は逃した。

1961年には外野手を兼ねたが、初の20本塁打を達成してベストナインにも選出される。1962年には吉沢の移籍によって再度捕手に回るが、森徹の移籍で4番も務めるようになる。7月10日の巨人戦(中日)では判定への不信感から審判を殴打している。

1963年からは左翼手として確実性のあるバッティングで年々数字を上げ、同年は打率.290・25本塁打・70打点で2度目のベストナインに入る。6月18日の国鉄戦(後楽園)では、当時の日本記録である310勝を目前とした先発の金田正一に6回を終わり僅か2安打と、タイ記録を達成されそうなムードであった。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:178 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef