中里綴
出生名神田恵美
別名江美早苗
神田エミ
生誕1951年3月15日
出身地 日本 島根県松江市
死没 (1988-03-05) 1988年3月5日(36歳没)
学歴島根県立松江北高等学校中退
日本放送協会学園高等学校卒業
ジャンルJ-POP
職業作詞家、元女優・歌手
活動期間1958年 - 1988年
レーベルフィリップスレコード(1968年 - 1971年)
事務所西野バレエ団(1958年 - 1971年)
共同作業者田山雅充
南沙織
和泉常寛
井上堯之
中里 綴(なかさと つづる、1951年3月15日 - 1988年3月5日)は、日本の作詞家、元女優・歌手である[1][2][3][4][5]。
本名は神田 恵美(かんだ えみ)、女優時代の芸名は江美 早苗(えみ さなえ)、作詞家としての別名に神田 エミ(かんだ えみ)がある[1][2][3][4][5][6]。日本音楽著作権協会の全信託会員であり、没後についても同協会が音楽著作権を管理している。元夫に殺害された。 1951年(昭和26年)3月15日、島根県松江市に生まれる[1][2][3][4]。実家は老舗旅館であり、4人兄弟の末っ子であった[3][4]。 6歳からバレエを習い始め、小学2年生になった1958年(昭和33年)、西野バレエ団に入団する[1][3][4]。1966年(昭和41年)3月、松江市内の中学校卒業後、4月、島根県立松江北高等学校に進学するも、親の反対を押し切り同校を中途退学して東京に移り、同バレエ団で活躍、やがて金井克子、由美かおる、奈美悦子、原田糸子と並ぶ5人娘と呼ばれるようになる[1][3][4]。江美早苗の名で、1967年(昭和42年)に同バレエ団のメンバーで結成されたダンスグループ「レ・ガールズ」に参加、8月4日に放映開始した音楽バラエティ番組『レ・ガールズ』(日本テレビ)にレギュラー出演、1968年(昭和43年)3月16日に公開された劇場用映画『ミニミニ突撃隊』や9月15日に公開された『初恋宣言』に「レ・ガールズ」のメンバーとともに出演する[2][3][6]。1968年にはフィリップスレコードと歌手として専属契約し、2月5日、シングルレコード『涙でかざりたい』でソロ歌手としてデビューしている。 1971年(昭和46年)1月31日に放送開始し現在もつづく長寿番組『新婚さんいらっしゃい!』の初代司会に満19歳で抜擢され、月亭可朝・桂三枝との3人でスタートを切った[7][8]。7月11日の放送分を最後に同番組を降板、翌週からの2代目司会梓みちよに交代した。6月16日に公開された『呪いの館 血を吸う眼』(監督:山本迪夫)は、女優としての江美の代表作とされる[3]。10月に発売されたシングル『ふたりの歓び』を最後に歌手活動を終えている。合計7枚のシングルを発表した。この間に、通信教育を受け、日本放送協会学園高等学校(現在のNHK学園高等学校)を卒業した[3]。 1972年(昭和47年)春、満21歳で引退し、同バレエ団を退団して郷里の松江市に戻る[3][5]。 1973年(昭和48年)9月、東京に戻り、作詞家としての再スタートを切る[3][5]。 1974年(昭和49年)6月には、田山雅充が結成したグループ「赤い花」のデビューシングル「赤い花みつけた」のB面曲『今愛の中で』(作曲:田山雅充、キャニオンレコード)に中里綴の名で歌詞を提供している[3]。1975年(昭和50年)には、田山の新しいデュオ「たやまと夕子
人物・来歴
江美早苗の時代
中里綴・神田エミの時代
1980年代にかけて、沢田聖子、中森明菜、堀ちえみらの楽曲の作詞を手がけた[5]。作詞家としての再出発以来8年の同棲生活を経て、1981年(昭和56年)3月、元フィリップスレコード社員で音楽プロデューサーとして独立していた14歳年上の男性と結婚する[4][5][9]も、1985年(昭和60年)12月協議離婚している[4][5][9]。