江田ビジョン
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日本政治家江田 三郎えだ さぶろう
『日本社会党20年の記録』(1965年11月)
生年月日1907年7月29日
出生地 日本 岡山県久米郡福渡村(現:岡山市北区建部町
没年月日 (1977-05-22) 1977年5月22日(69歳没)
死没地 日本 東京都
出身校神戸高等商業学校(現:神戸大学)転学
東京商科大学(現:一橋大学)中退
前職全国農民組合岡山県連書記長
所属政党(日本社会党→)
(左派社会党→)
(日本社会党→)
社会市民連合
称号永年在職議員(両院通算)
親族長男、江田五月
衆議院議員
選挙区岡山県第2区
当選回数4回
在任期間1963年11月22日 - 1976年12月9日
参議院議員
選挙区岡山県選挙区
当選回数2回
在任期間1950年6月5日 - 1962年7月7日
初代 社会市民連合代表
在任期間1977年3月26日 - 1977年5月22日
岡山県議会議員
選挙区上道郡選挙区
当選回数1回
在任期間1947年 - 1948年
岡山県会議員
選挙区上道郡選挙区
当選回数1回
在任期間1937年 - 1937年
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江田 三郎(えだ さぶろう、1907年明治40年〉7月29日 - 1977年昭和52年〉5月22日)は、日本政治家

参議院議員(2期)、衆議院議員(4期)、日本社会党書記長、日本社会党委員長代理、日本社会党副委員長、社会市民連合代表(初代)を歴任した。長男は元参議院議長江田五月
概説

1931年昭和6年)、官立東京商科大学(現在の一橋大学)で講座派マルクス経済学者の大塚金之助に師事したのち、帰郷し農民運動に入り、全国大衆党に入党[1]1932年(昭和7年)に日農中央委員に就任した後、1934年(昭和9年)に全農岡山県連書記長に就任する。1937年(昭和12年)には岡山県議会議員となった[1]

1938年(昭和13年)に人民戦線事件で検挙される。1940年(昭和15年)の出獄後、中国就職[1]戦後帰国し、1946年(昭和21年)に日本社会党に入党した[1]1947年(昭和22年)に再び岡山県議となり、1950年(昭和25年)、参議院議員に初当選。党農民部長などを経て、1960年(昭和35年)には党書記長に就任する[1]。同年10月の党委員長浅沼稲次郎暗殺後、委員長代行を務めた[1]。構造改革論を取り入れた「江田ビジョン」の批判決議が1962年(昭和37年)の党大会で可決され、書記長を辞任[1]

1963年(昭和38年)、衆議院議員に初当選。1976年(昭和51年)12月の総選挙で落選した[1]。この間、社会党副委員長、書記長、委員長代行を務めたが、終始左派からの攻撃を受け、1966年(昭和41年)・1970年(昭和45年)の委員長選でも敗れた[1]

1976年(昭和51年)、「新しい日本を考える会」を結成[1]。1977年(昭和52年)に離党し社会市民連合(社民連の前身)を結成したが、同年5月22日に急死した[1]
来歴・人物
生い立ち

1907年7月、岡山県久米郡福渡村大字福渡(現在の岡山市北区建部町福渡)に父江田松次郎、母登瀬の子として生まれる[2]。家業は饂飩(うどん)と蕎麦(そば)の製造卸売業で、屋号を「志賀屋(しかや)」といった[2]商家らしく、間口を広く取った木造二階建てのどっしりした造りである。田舎の中流の暮らしで、家族が総出で家の仕事を手伝った[2]

長姉夫妻の援助で、当時日本の統治下の朝鮮京城(現在のソウル)の善隣商業学校で学ぶ。修学旅行内地に戻った際、外地において日本人がいかに横柄な振る舞いをしているかに気付き、植民地支配について勉強するため、神戸高等商業学校(現:神戸大学)に進学した。

この頃、労農派マルクス主義に興味を覚え、社会主義についてさらに学ぶために1929年、東京商科大学(現:一橋大学)に転学する[3]マルクス経済学大塚金之助ゼミに所属。しかし、谷川岳で遭難し肋膜炎にかかり、療養のため帰郷し、1931年本科2年で大学を中退。その後、全国大衆党(のちに全国労農大衆党)で岡山南部の農民運動指導者となった[4]

1937年岡山県議会議員に当選するも、翌1938年、第2次人民戦線事件に連座して検挙され服役。出獄後は葬儀会社に勤めたり、中国で開拓事業に従事したりするなどした。なお、この事件を受けて、手塚治虫の『アドルフに告ぐ』に、大内兵衛とともに江田の名が台詞に登場する。


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