江東楽天地
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1937年の開業時の江東楽天地

江東楽天地(こうとうらくてんち)は、かつて東京都墨田区江東橋にあった娯楽街。1937年(昭和12年)に建設され、阪急阪神東宝グループの株式会社東京楽天地によって運営された。1986年(昭和61年)には江東楽天地の娯楽施設をまとめる形で、娯楽街の跡地に楽天地ビルが建設された。
歴史
江東楽天地の開業「東京楽天地」も参照創立者である小林一三@media all and (max-width:720px){body.skin-minerva .mw-parser-output div.mw-graph{min-width:auto!important;max-width:100%;overflow-x:auto;overflow-y:visible}}.mw-parser-output .mw-graph-img{width:inherit;height:inherit}.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

現在、技術上の問題で一時的にグラフが表示されなくなっています。
[全画面表示]戦前の江東楽天地
青:東京楽天地経営の映画館、緑:東京楽天地経営の施設、赤:吉本興業経営の映画館
1 本所映画館
2 江東劇場
3 江東花月劇場
4 仲見世
5 江東観世音

1937年(昭和12年)2月27日、東宝創始者の小林一三によって株式会社江東楽天地が創設された[1]。かつて東京市本所区錦糸堀(現在の錦糸町)には平岡工場を前身とする汽車製造合資会社東京支店(現在の川崎重工業株式会社)があり、1931年(昭和6年)の小名木川駅近辺への移転後はその跡地が8000坪の空き地となっていたが、株式会社江東楽天地はその場所に総合レジャー施設として江東楽天地を建設した[1]。1937年(昭和12年)4月に着工し、12月3日には中核施設である江東劇場本所映画館が開館した[1]。いずれも定員1500人の大劇場である[1]

1938年(昭和13年)4月3日には、遊園地、吉本興業に賃貸した江東花月劇場、須田町食堂に賃貸した大食堂、仲見世、高等屋台店、スポーツランド、喫茶店なども開業した[1]。1939年(昭和14年)2月17日には今村信吉が代表取締役社長に就任[1]。同年6月にはローラースケート場などが開業、1940年(昭和15年)4月には敷地内に江東観世音が建立され、当初の構想がすべて実現した[1]。1938年(昭和13年)5月に施行された国家総動員法などの影響で統制が強まり、製作本数、入場税、興行時間などで制約が課されたが、戦時下で江東楽天地の娯楽は多くの観客に求められた[1]。1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲では江東地区だけで焼失戸数23万戸・死傷者数12万人という被害を出し、江東楽天地も江東劇場が盾となった本所映画館以外が全滅した[1]
1937年の開業時の江東楽天地


開業時の南側入口

開業時の江東劇場

開業時の本所映画館

戦後の拡大初のシネマスコープ作品『聖衣

現在、技術上の問題で一時的にグラフが表示されなくなっています。
[全画面表示]戦後の江東楽天地
青:東京楽天地経営の映画館、緑:東京楽天地経営の施設、赤:吉本興業経営の映画館
1 本所映画館
2 江東劇場
3 錦糸町映画劇場
4 江東名画座
5 江東リッツ劇場
6 江東文化劇場・江東スカラ座
7 江東花月劇場
8 江東東映劇場
9 楽天地天然温泉会館

東京大空襲後の1945年(昭和20年)6月には本所映画館が営業を再開し、戦後の1946年(昭和21年)1月1日には江東劇場も松竹・大映封切館として開館した[2]。周辺の盛り場である両国浅草は戦後復興が立ち遅れたため、本所映画館と江東劇場の建物が残った江東楽天地には戦後すぐの時期から人が集中した[3]。なお、戦後すぐから1948年(昭和23年)にかけて、江東楽天地前の広場には闇市があったという[4]。1948年(昭和23年)4月29日には初めて宝塚歌劇団の公演が行われ、1951年(昭和26年)6月までに計8回行われた[5]。娯楽が乏しかった時代だけに宝塚歌劇団の公演は連日満員となり、静岡県浜松市宮城県仙台市などからも観客が訪れたという[6]。当時はロードショー公開する劇場が厳密に定められていたが、1949年(昭和24年)12月には例外的に本所映画館で『若草物語』がロードショー公開されたこともあった[6]

1950年(昭和25年)1月には都内5番目となる国営競馬(現在の日本中央競馬会場外馬券売場(現・ウインズ錦糸町)を開設し、同年12月には戦前の江東花月劇場跡地に錦糸町映画劇場(キンゲキ)が開館した[2]。1951年(昭和26年)には吉本興業によって大映封切館の江東吉本映画劇場(後の江東東映)が、1952年(昭和27年)に松竹洋画系の江東花月映画劇場が開館し、江東楽天地の映画館は株式会社江東楽天地が経営する映画館と合わせて9館となった[2]

入場料が高額の本所映画館は主にインテリ層を、江東劇場は10代から20代の流行に敏感な若者を、その他の映画館は労働者やサラリーマンを主な客層としていたとされる[4]。「(江東楽天地は)大衆の盛り場であり、地方の浅草」と評されることもあった[4]。東京の中でも銀座新宿の映画館はゴールデンウィークに閑散とするが、同時期の江東楽天地は盆と正月を合わせたような混雑になったという[7]。ほとんどすき間なしに家が建っていて、どの家にも庭がない。樹木と名のつくものは街路樹ぐらいのものだ。こういう土地に住む人たちにとって、最大の憩いの場所―木のないオアシスともいうべきものが、江東楽天地である。小さな問屋や小売店、中小企業、いや、零細企業ともいうべき町工場が密集していて、そこではたらく沢山な低賃金労務者たちが、ほんのちょっぴりの自由な時間となけなしの金をもって、ここにあつまってくるのだ。 ? 江東楽天地について、大宅壮一[7]

1951年(昭和26年)11月には松竹の牙城だった台東区浅草に進出し、株式会社江東楽天地の兄弟会社として株式会社浅草楽天地が設立されたが、同年12月1日には株式会社江東楽天地と株式会社浅草楽天地が合併している[2]。1953年(昭和28年)2月には日本放送協会(NHK)がテレビの本放送を開始し、映画業界は危機感を募らせた[2]。同年には江東劇場に日本初のワイドスクリーンが設置され、1954年(昭和29年)5月には本所映画館に都内で2番目のシネマスコープ設備が設置された[2][6]。初めて上映されたシネマスコープ作品の『聖衣』は4週間で約12万人を動員する大ヒットとなった[6]

1953年(昭和28年)1月1日には錦糸町映画劇場の東側に3階建ての楽天地会館を建設し、パチンコデパート(後に江東文化劇場に改装)、子ども遊園地などが開業した[2]


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