江東区立数矢小学校
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度40分21.37秒 東経139度47分59.08秒 / 北緯35.6726028度 東経139.7997444度 / 35.6726028; 139.7997444
江東区立数矢小学校(こうとうくりつ かずやしょうがっこう)は、東京都江東区富岡1丁目にある区立小学校。
概要
全校生徒数707名(1年123名・2年130名・3年119名・4年125名・5年115名・6年95名、2021年度)。
近隣に富岡八幡宮や深川不動尊が所在している。
校名は、江戸時代この地に所在していた三十三間堂に於いての弓術競技「通し矢」(通称「大矢数」)に由来している。
沿革
1913年(大正2年)4月1日[1] - 数矢尋常小学校開校。
1923年(大正12年)9月1日 - 12時頃に発生した関東大震災により、校舎が全焼する被害が出た。
1941年(昭和16年)4月 - 国民学校令により、東京府東京市数矢国民学校と改称。
1943年(昭和18年)7月1日 - 東京府と東京市が統合した東京都発足(東京都制施行)により、東京都数矢国民学校と改称。
1944年(昭和19年)
4月 - 学校給食実施。
8月 - 戦局の悪化により、児童疎開実施。新潟県三条市に児童502名・職員15名。
1945年(昭和20年)3月 - 東京大空襲。校舎は当直職員と避難者の尽力によって残った。
1946年(昭和21年)3月 - 児童集団疎開が、新潟より引き上げる。
1947年(昭和22年)4月 - 学制改革により、東京都江東区立数矢小学校と改称。
1977年(昭和52年)12月 - 校舎改築のため、深川二中へ移転。
1979年(昭和54年)5月 - 校舎改築落成式典挙行。
1990年(平成2年)7月 - 防音、冷暖房施設を取り付ける。
2007年(平成19年)3月 - 95周年記念プレートを南側フェンスに設置。
2015年(平成27年)4月 - オリンピック・パラリンピック教育推進校の指定を受ける。同月、学校支援地域本部(かずや応援団)を開設。
2016年(平成28年)2月 - 防球ネット設置、校庭改修工事、遊具新設。
2021年(令和3年)
7月 - 大規模改修・増築工事のため、南砂仮校舎(旧南砂西小)へ移転。
7月1日 - 大規模改修・増築工事着工。
2022年(令和4年)10月31日 - 大規模改修・増築工事が完成。
通学区域
出典[2]
平野2丁目(16番20号)
平野3丁目(2番12号)
深川2丁目(1番?11番)
冬木(1番?18番)
門前仲町2丁目(全域)
富岡1丁目(全域)
富岡2丁目(全域)
牡丹2丁目(全域)
古石場1丁目(8番?13番)
木場2丁目(7番?19番)
木場3丁目(全域)
木場4丁目(全域)
木場5丁目(4番?12番)
進学先中学校
出典[3]
江東区立深川第二中学校 - 平野・深川・冬木から通う児童の主な進学先
江東区立深川第三中学校 - 富岡・牡丹・門前仲町・古石場から通う児童の主な進学先
江東区立東陽中学校 - 木場から通う児童の主な進学先