江戸
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「江戸」のその他の用法については「江戸 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
江戸図屏風に見る、初期の江戸弘化年間(1844年-1848年)改訂江戸図1853年の青山通り宮益坂上(左)?青山2丁目(右)、麻布長谷寺(中央下)近辺。根岸信輔蔵。

江戸(えど、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:江?) [1]は、現在の東京の前身・原型に当たる都市を指し、その旧称である。現在の東京都区部の中央部に位置した。

平安時代後期に東京湾日比谷入江に面する小地名として現れ(武蔵国豊島郡内)、そこに秩父氏の一族の武士が移り住んで江戸氏を名乗り勢力を伸ばし、江戸郷と呼ばれることとなった。

徳川家康1590年に入府し、1603年慶長8年)から1868年慶応4年)まで江戸幕府が置かれた。
概要

江戸は、江戸時代に江戸幕府が置かれた日本政治の中心地(行政首都)として発展した。また、江戸城徳川氏将軍の居城であり、江戸は幕府の政庁が置かれる行政府の所在地であると同時に、自身も天領を支配する領主である徳川氏(徳川将軍家)の城下町でもあり、武陽(ぶよう)と呼ばれることもあった。

徳川氏が関ヶ原の戦いに勝利し1603年に征夷大将軍となると、江戸は一気に重要性を増した。徳川家に服する武将(大名)に江戸の市街地普請が命じられ、山の切り崩しや入り江や湾の埋め立て等が行なわれ、旗本御家人などの武士、家臣、その家族らが数多く居住するとともに、町人が呼び寄せられ、江戸は急速に拡大した。1612年(慶長17年)には江戸町割が実施され[2]1623年元和9年には武家地に町人が住むことが禁じられた。1635年(寛永12年)に参勤交代が始まると、新たに大名とその家族のための武家屋敷が建設された。

木造家屋が密集しており、火事が頻発した(江戸の火事)。1657年3月2日(明暦3年旧暦1月11日)には、明暦の大火が発生し、多大な被害が生じたが、その後も市街地の拡大が続いた。

江戸の町を大きく分けると、江戸城の南西ないし北に広がる町(山の手)と、東の隅田川をはじめとする数々の河川・堀に面した町(下町)に大別される。江戸時代前期には、「山の手が武家屋敷で、下町が町人の町」と一般的に言われていたが、江戸時代中期以降の人口増加によって、山の手に町人町が存在(千代田区の一部が挙げられる)したり、逆に下町に多くの武家屋敷が存在するなど、実際はかなり複雑な様相を示していた。江戸の都市圏内には非常に多数の(そして多様な)町が存在するようになり「江戸八百八町」とも言われるようになり、18世紀初頭には人口が百万人を超え、世界有数の大都市へと発展を遂げた。膨大な数の庶民によって多彩な文化が開花した。また、江戸は循環型社会であった[3]。江戸の住人は「江戸者」「江戸衆」「江戸人」などと言ったが、江戸で生まれ育った生粋の江戸人や、根っから江戸者らしい性質(小さなことにこだわらず、だが意地張りで、しばしばせっかちで短気、等々)を備えた町人が江戸っ子と呼ばれた。→#生活と文化
江戸の行政・司法(および警察)

最初、江戸の「町方支配場」の行政・司法は江戸町奉行南町奉行および北町奉行)が管理した。町奉行が管理したのは あくまで町方のみであり、神社や寺院の私有地である「寺社門前地」や江戸城・大名屋敷等の「武家地」は町奉行の管理(支配)は及ばなかった。

だがその後、1745年(延享2年)に寺社門前地内の町屋を江戸町奉行が管理することが正式に通達され、門前町町屋・寺社領町屋440箇所、寺社境内借家有の分127箇所、合計567箇所が町奉行の支配となった。江戸町方支配場・寺社門前地の町数は享保8年(1723年)に1672町、延享3年(1746年)に1678町、天保19年(1843年)には1719町に増えた。『江戸図説』によると天明年中(1785年頃)の江戸町数1650余町の内、町方分1200余町、寺社門前地分400余町で、他に大名上屋敷265ヶ所、中屋敷・下屋敷466ヶ所[注釈 1]、「神社凡そ200余社」「寺院凡1000余所」との記述がある。

町奉行の管理領域だけでなく、「江戸御府内」の範囲も時代によって変化があり、特に寺社門前地をどう取り扱うかについては幕府役人の間でも混乱があったことをうかがわせる書簡が残っている。1818年(文政元年)には江戸御府内を「朱引」、町奉行の支配領域を「墨引」と呼び、江戸御府内であっても町奉行の支配下ではない地域が郊外にできた(これらの地域は武家屋敷と武家所領、寺社門前地と寺社所領などで、御府内であっても一部で代官支配体制が続いており、武家屋敷と共にかなりの農地が存在し、また一部では町屋を形成していたと考えられている)。また1854年安政元年以降は新吉原品川・三軒地糸割符猿屋町会所までが町奉行の支配下に入った。
幕末の江戸と明治初頭の東京

徳川幕府は実に260年ほども続いたが、幕末には内政でも外政でも問題が山積の状態となり混乱を来たした。

1862年(文久2年)に参勤交代が緩和され、江戸の武家人口が激減。政治的中心も京都に移り、15代将軍徳川慶喜は将軍としては江戸に一度も居住しないような状態であった。徳川家と敵対する勢力によって一連の軍事的また政治的クーデターである明治維新が行われ、1868年(明治元年)に発せられた江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書によって江戸は「東京」と改称され、東京への改称とともに町奉行支配地内を管轄する東京府庁が開庁された。また天皇の東京行幸により江戸城が東京の皇居とされた。

明治維新により徳川将軍家が静岡に転封された際にも人口が減少した。明治2年(1869年)に東京府は新たに朱引を引き直し、朱引の内側を「市街地」、外側を「郷村地」と定めた。この時の朱引の範囲は江戸時代の「墨引」の範囲におおむね相当し、安政年間以降一時的に江戸に組み込まれた品川などは、東京とは別の町として扱われ、町数も1048(『府治類集』)に減った。翌年には、最初は京都にあった明治新政府も東京に移され、再び日本の事実上の首都となった。1871年廃藩置県が行われ、東京府は新・東京府に置き換わった。
歴史
平安時代

「江戸」という地名は平安時代後期に生まれたと考えられている。

隅田川が東京湾へ注ぐ河口部からは南西に位置する平川の河口付近(和田倉門付近で日比谷入江[4]に注いでいた)を指す小地名として生まれた[5]。概ね神田山(後の駿河台)の裾部から南へ江戸前島(後の江戸郷前島村)まで指す。

地名の由来は、江は川あるいは入江とすると、戸は入口を意味するから「江の入り口」に由来したと考える説が有力である。また「戸」は港町の名称に用いられる例が多いことから、「江の港」とする説[注釈 2][6]もある。あるいは、江戸の近郊にあったとされる今津・亀津・奥津という地名が、現在では今戸亀戸奥戸と称されている事から、「江の津」とする説[5]もある。

平安時代中期(930年代頃)に成立した『和名類聚抄』には、「江戸」という地名の記載は無くまだ発生していなかったと考えられる。地名の発生は、その後の平安時代後期と考えられ、鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』が史料上の初見である。

なお『和名類聚抄』記載の郷名として、武蔵国豊島郡に「湯島郷」(現在の文京区湯島)・「日頭郷」(同区小日向)があり、どちらかの郷内と考えられる。また平川(および日比谷入江)を挟んで西に隣接する荏原郡「桜田郷」が記載されている(千代田区霞が関の旧称である桜田に名が残り、太田道灌以降の江戸城が平川河口を見下ろす麹町台地東端に建てられた)。

律令時代東海道は、この地を通っていた。


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