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結城素明画『江戸開城談判』(聖徳記念絵画館所蔵)。明治新政府大総督府下参謀の西郷隆盛と江戸幕府陸軍総裁の勝海舟が、江戸の薩摩藩邸にて江戸開城をめぐり交渉する場面を描く。
江戸開城(えどかいじょう)は、江戸時代末期(幕末)の慶応4年(1868年)3月から4月(旧暦)にかけて、明治新政府軍(東征大総督府)と旧幕府(徳川宗家)との間で行われた、江戸城の新政府への引き渡しおよびそれに至る一連の交渉過程をさす。江戸城明け渡し(えどじょうあけわたし)や江戸無血開城(えどむけつかいじょう)、江戸城無血開城(えどじょうむけつかいじょう)ともいう。徳川宗家の本拠たる江戸城が同家の抵抗なく無血裏に明け渡されたことから、同年から翌年にかけて行われた一連の戊辰戦争の中で、新政府側が大きく優勢となる画期となった象徴的な事件であり、交渉から明け渡しに至るまでの過程は小説・演劇・テレビドラマ・映画などの題材として頻繁に採用される。 ※以下、日付はすべて旧暦(天保暦)によるものである。 慶応3年(1867年)10月大政奉還により政権を朝廷へ返上した15代将軍徳川慶喜は、新設されるであろう諸侯会議の議長として影響力を行使することを想定していたが、討幕派の公家岩倉具視や薩摩藩の大久保利通・西郷隆盛らが主導した12月初旬の王政復古の大号令とそれに続く小御所会議によって自身の辞官納地(官職・領土の返上)が決定されてしまう。慶喜はいったん大坂城に退くが、公議政体派の山内容堂(前土佐藩主)・松平春嶽(前越前藩主)・徳川慶勝(前尾張藩主)らの工作により、小御所会議の決定は骨抜きにされ、また慶喜も諸外国の公使に対して外交権の継続を宣言するなど、次第に列侯会議派の巻き返しが顕著となってきた。大政奉還の少し前の慶応3年10月13日そして14日には討幕の密勅が薩摩と長州に下される。江戸薩摩邸の活動も討幕の密勅を受けて活発化して定め書きを書いて攻撃対象を決めた。攻撃対象は「幕府を助ける商人と諸藩の浪人。志士の活動の妨げになる商人と幕府役人。唐物を扱う商人。金蔵をもつ富商」の四種に及んだ。江戸薩摩藩邸の益満休之助・伊牟田尚平に命じ、相楽総三ら浪士を集めて攪乱工作を開始。 しかし、慶応3年10月14日、同日に大政奉還が行われ、討幕の実行延期の沙汰書が10月21日になされ、討幕の密勅は事実上、取り消された。 既に大政奉還がなされて幕府は政権を朝廷に返上したために倒幕の意味はなくなり薩摩側も工作中止命令を江戸の薩摩邸に伝える。 ただそれでも江戸薩摩藩邸の攘夷派浪人は命令を無視して工作を続けていた。江戸市中警備の任にあった庄内藩がこれに怒り、12月25日、薩摩藩および佐土原藩(薩摩支藩)邸を焼き討ちするという事件が発生した。 この報が12月28日大坂城にもたらされると、城内の強硬派が激昂。薩摩を討つべしとの主戦論が沸騰し、当初恭順の意思を固めていた慶喜もいよいよ城内の主戦論を抑えることができなくなり、「討薩表」を発した。そして、それを携えた幕府軍が上京を試み、慶応4年正月3日鳥羽(京都市)で薩摩藩兵と衝突し、戦闘となった(鳥羽・伏見の戦い)。
概要
戊辰戦争勃発と慶喜追討令