江戸落語(えどらくご)は、江戸時代にはじまる古典落語のうち、江戸(いまの東京)を中心に演じられる落語、およびその演目。東京落語。 17世紀後半(貞享・元禄年間)の鹿野武左衛門に始まる江戸の落語は、18世紀後半の烏亭焉馬の会咄を経て、三笑亭可楽(初代)によって寄席芸能として確立されたといわれる[1]。その後、水野忠邦の天保の改革にともなう綱紀粛正策によって大打撃を受けたが、幕末には再び復興し、明治時代にあらわれた三遊亭圓朝(初代)と3代目柳家小さんらによって大成された[1]。江戸落語は、いわゆる「江戸っ子」の気風を反映して、派手な演出を極力排し、手拭いと扇子のみで多種多様な表現を行う「素噺 落語は当初「落とし噺」といって落ちのある滑稽なものを指し、江戸時代前期に辻や寺社の一画(上方)、座敷等(江戸)で人びとを集めて噺を聞かせたのが落語家(噺家)の始まりとされている[2]。 京都では露の五郎兵衛が、大坂で米沢彦八が現れて大道で人気を博したころ、江戸では大坂出身で塗師職人だった鹿野武左衛門が芝居小屋や風呂屋、あるいは酒宴など様々な屋敷に招かれて演じる「座敷噺」(「座敷仕方咄」)を始めて評判となった[3][注釈 1]。『鹿の巻筆』より。酒宴で落とし噺を演じる鹿野武左衛門 貞享3年(1686年)、武左衛門の著した咄本『鹿の巻筆
概要
江戸落語の歴史
鹿野武左衛門
ところが、武左衛門が些細なことから連座して元禄年間に伊豆大島に流罪に処せられたことから、江戸の「座敷噺」人気はいったん下火となってしまった[3][5][注釈 2]。
ただ、宝暦(1751年-1763年)から明和(1764年-1771年)にかけては町人層における学習熱の高まりから中国起源の笑話の訓読ブームが起こり[6]、明和から安永(1772年-1780年)にかけては『鹿の子餅』『聞上手』といった、前代よりも洗練の度を増した咄本が刊行されて、庶民の娯楽としての落語の成立に大きな影響をあたえた[7]。 天明(1781年-1789年)から寛政年間(1789年-1801年)にかけて、江戸では再び落語の流行がみられた(第2次落語ブーム[8])。大工職人を本業としながらも、「鑿釿言墨金(のみちょうなごんすみかね)」の狂名をもつ狂歌師でもあり、また戯作者としても活躍した烏亭焉馬(初代)は天明6年(1786年)4月12日、江戸向島の料亭・武蔵屋で新作落とし噺の会を主催して好評を博した[8][9]。これは、焉馬らが狂歌の会の合間、気分転換のため互いに咄を披露しあっていたものを発展させたものであり、大田南畝や朱楽菅江も参加した[7]。 その後、焉馬の噺の会は料理屋の2階などを会場として定期的に開かれるようになり、戯作者山東京伝や式亭三馬、浮世絵師の歌川豊国、歌舞伎役者の5代目市川團十郎といった錚々たる面々、また可楽、圓生、夢羅久、談笑など後に職業落語家となる人々も参加した[7][9][注釈 3]。寛政4年(1792年)以降は「咄初め」と称して正月21日を定例開催日とし、会は年中行事の一部となった[7]。また、焉馬宅で月例会も開かれるようになり、いっそう活況を呈した[10][7]。焉馬の会は30年以上つづき、烏亭焉馬はこれにより江戸落語中興の祖と称される[8][9]。 寛政に入ると、すでに大都市となった江戸では浄瑠璃や小唄・軍書読み(現在の講談)・説教などが流行し、聴衆を集めて席料をとるようになった。これは「寄せ場」「寄せ」と称され、現在の寄席の原型となった[8]。寛政3年(1791年)に大坂出身の岡本万作
寄席の登場
落とし噺の分野では、寛政10年6月、江戸馬喰町の櫛職人だった山生亭花楽が下谷(現台東区)の下谷稲荷神社で寄席をひらいた[8][注釈 4]。このときの興行は演目がすぐに尽きてしまい、わずか5日間で看板をおろしてしまったが、各地を巡業して修行を重ね、2年後「三笑亭可楽」に名を改め、再び寄席で落とし噺を披露した[11]。花楽改め可楽は、話芸を本職とする江戸における噺家の第一号であった[11]。従来の落とし噺の会は、素人衆が当日限りで料理屋や貸席を借りて催すものだったのが、一定の期間、特定の場所で代金を徴収して興行をおこなう落語寄席に進化していったのである[12]。可楽の寄席興行では、「謎解き」(謎かけ)や、客が出した3つの言葉を噺の中にすべて登場させて一席にまとめる「三題噺」、さらに線香が1分(約3ミリメートル)燃え尽きるあいだに即興で短い落とし噺を演じる「一分線香即席噺」など趣向を凝らした名人芸で人気を得た[8]。