江戸川
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この項目では、利根川の分流の河川について説明しています。東京都特別区については「江戸川区」を、その他の用法については「江戸川 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

江戸川
千葉県流山市流山 水系等級=一級水系
水系利根川
種別一級河川
延長55 km
平均流量109.96 m³/s
(野田観測所1999年)
流域面積200 km²
水源利根川茨城県五霞町
水源の標高8.6 m
河口・合流先東京湾(千葉県市川市
流域茨城県、埼玉県、千葉県、東京都
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江戸川(えどがわ)は、関東地方を流れる一級河川。利根川水系で利根川の分流(派川)である。

流路延長は本流(江戸川放水路)河口より約55km、旧江戸川河口より約60km、流域面積約200km2である[1]。流域は、茨城県埼玉県千葉県東京都の1都3県におよぶ[1]
地理利根川から江戸川へ分流する地点である関宿分岐点付近の空中写真。北西方向から南東方向へ流れる利根川本流から南方向へ江戸川が分流する。分流したすぐ下流の地点に関宿水門が設置されている。(1990年撮影の7枚を合成作成。国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成。)市川市国府台三丁目より市川橋方面(2009年10月1日撮影)

江戸川は茨城県猿島郡五霞町と千葉県野田市の境界付近にある関宿分基点(関宿水閘門のやや上流)で利根川と分かれる。千葉県と埼玉県、東京都の境を南下し、東京都江戸川区と千葉県市川市の間に架かる江戸川大橋の下流で本流(江戸川放水路)と旧江戸川に分かれる[1]。このうち本流(江戸川放水路)は行徳可動堰(江戸川河口堰)を通り、千葉県市川市で東京湾に注ぐ。1965年(昭和40年)以降は江戸川放水路を江戸川の本流とし、元の川のほうは「旧江戸川」という名称となっている[2][3]

利根川からの分派点がある江戸川の流頭部は、低水路と高水路からなり、低水路部には関宿水閘門が設置され、高水路部は床固め工による自然分流方式をとっている[4]

また、江戸川下流部には、旧江戸川上流端に江戸川水閘門(篠崎水門)、本流(江戸川放水路)に行徳可動堰が設けられている[1][2]。旧江戸川上流端に位置する江戸川水閘門には治水機能や通航機能、塩分遡上防止と維持流量の確保などの機能がある[1]。江戸川は平常時には塩分遡上防止のため本流(江戸川放水路)にある行徳可動堰が閉じられており、江戸川水閘門から旧江戸川を通り東京湾に注いでいる(概ね毎秒9立方メートル)[1][2]。洪水時には行徳可動堰を開き本流(江戸川放水路)から東京湾に流すことで江戸川の水量を調節している[1][2]

なお、千葉県浦安市堀江にある堀江水位観測所の水位標0mを基準とした水面の高さは、Yedogawa Peilの略である「Y.P.」(ワイ・ピー)と呼ばれ、利根川や江戸川、那珂川などの河川整備等で測量する際の基準面となっている[5]。この量水標の零位にあたる江戸川水位尺(Yedokawa Peil)はオランダ技師リンドが1872年(明治5年)に清瀧神社に設置した堀江水準標石に由来している[6]。江戸川工事基準面(Yedogawa Peil:Y.P.)の詳細については「量水標」を参照
歴史歌川広重名所江戸百景 鴻の台とね川風景』(市川市里見公園付近の風景)

中世まで利根川は埼玉平野で枝分かれし南流して東京湾に注いでおり、そのうち最も東の支川は現在の古河付近で渡良瀬川と合流後に南流し、現在の幸手市・春日部市では庄内川と呼ばれた。最下流では太日川と呼ばれた(現在の中川の位置よりも東を南流し東京湾に注いだと考えられている)。これが現在に至る江戸川の原型となった[7]

更級日記』『吾妻鏡』『義経記』等に太日川を渡った旨の記述が見られる。[8]

徳川家康江戸入府後、伊奈忠次伊奈忠治らによる利根川東遷事業が始められた。江戸川に利根川の本流が流れるようになり、1641年には現在の江戸川上流部が人工水路として開削された[9]。なお、江戸川下流部も人工水路であるという説[10]もある。

その後、江戸幕府による舟運路の整備により、江戸への廻米などの輸送経路として繁栄した[7]

1890年に、利根運河を開削し水路短縮が図られた。その後すぐに鉄道網が整備され、水運は急速に衰退した。

1911年(明治44年)の江戸川改修工事の計画で新たな水路の開削が決定された[1][3]。そして1919年(大正8年)に江戸川放水路が開削された[2]

1958年に東京都江戸川区の製紙工場から黒い排水が放流され、下流域の漁業に大きな損害を与える公害が発生した。詳細は「江戸川漁業被害」を参照
河川敷内の集落

京成本線の江戸川橋梁付近の河川敷には、1955年(昭和30年)頃から地方出身者がバラック住宅を建てて住み始め、1969年(昭和44年)時点で146戸、約400人が居住する大規模な集落ができていた。明らかな違法住宅であり、東京電力が電気を供給しなかったことから、住民が自前の発電・送電施設を設け、夕方から夜間にかけて電気を供給していた。1969年1月、橋梁直下の住宅で火災が発生して2人が亡くなった。線路の枕木に延焼して京成電鉄が運休したことから、これを契機に建設省江戸川工事事務所が立ち退き交渉を始めた[11]。その後、集落は解消され河川敷として再整備され、1982年(昭和52年)には小岩菖蒲園が開業したほか[12]野球場などが整備されている。
水害

多くの大河川と同様に、江戸川もカスリーン台風通過時(1947年)など過去に洪水を度々引き起こしており[13]堤防整備(国直轄事業で上流部は首都圏氾濫区域堤防強化対策、下流部は高規格堤防)など治水工事が行われている。2018年には、1000年に1度クラスの集中豪雨で江戸川と荒川が同時に氾濫した場合、東京東部5区(江戸川区のほか葛飾区足立区江東区墨田区)のほとんどが浸水するとの被害予想が公表された[14]


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