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江戸川 乱歩
(えどがわ らんぽ)
1954年
ペンネーム小松 龍之介
誕生平井 太郎(ひらい たろう)
(1894-10-21) 1894年10月21日
日本・三重県名賀郡名張町(現・名張市)
死没 (1965-07-28) 1965年7月28日(70歳没)
日本・東京都豊島区池袋
職業小説家
言語日本語
国籍 日本
最終学歴早稲田大学大学部政治経済学科
活動期間1923年 - 1965年
主題推理小説、怪奇・恐怖小説[※ 1]
代表作『D坂の殺人事件』(1925年)
『陰獣』(1928年)
『孤島の鬼』(1930年)
『黒蜥蜴』(1934年)
『怪人二十面相』(1936年)
『幻影城』(1951年、評論)
『探偵小説四十年』(1961年、自伝)
主な受賞歴紫綬褒章(1961年)
勲三等瑞宝章(1965年)
デビュー作『二銭銅貨』(1923年)
子供平井隆太郎
親族平井蒼太 (次弟)
平井憲太郎(孫)
松村喜雄(従妹の息子)
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江戸川 乱歩(えどがわ らんぽ、旧字体:江?川 亂?、1894年〈明治27年〉10月21日 - 1965年〈昭和40年〉7月28日)は、日本の推理作家、怪奇・恐怖小説家[※ 1]、アンソロジスト[※ 2]。本名は平井 太郎(ひらい たろう)[1]。日本推理作家協会初代理事長。位階は正五位。勲等は勲三等。ペンネームは小説家のエドガー・アラン・ポー[2][※ 3]のもじり。
大正から昭和期にかけて活躍し、主に推理小説を得意とした。また、第二次世界大戦後は推理小説分野を中心に評論家や研究家、編集者としても活躍した。乱歩の寄付で創設された江戸川乱歩賞が推理作家の登竜門となるなど、後世にも大きな影響を与えた。自らも実際に探偵として、岩井三郎探偵事務所(ミリオン資料サービス)に勤務していた経歴を持つ。
経歴
生い立ち乱歩生誕地碑広場
1894年(明治27年)、三重県名賀郡名張町(現・名張市)に名賀郡役所書記の平井繁男ときくの長男として生まれる(本籍地は同県津市)。平井家は武士の家柄で、祖先は伊豆伊東の郷士だった。のちに伊勢の津藩の藤堂家に仕え、乱歩の祖父の代まで藤堂家の藩士として勤め上げた。
2歳の頃父の転勤に伴い三重県鈴鹿郡亀山町(現・亀山市)、翌年、愛知県名古屋市に移る。以降、大人になっても引越しを繰り返し、生涯で46回引っ越した。
小学生の頃に母に読み聞かされた菊池幽芳訳『秘中の秘』(ウィリアム・ル・キュー原作)が、探偵小説に接した最初であった。中学校では、押川春浪や黒岩涙香の小説を耽読した。旧制愛知県立第五中学校(現・愛知県立瑞陵高等学校)を卒業後、早稲田大学の政治経済学科に進学。在学中に(メルヴィル・D・ポーストに先んじた世界初のトリックという意味で)傑作の処女作『火縄銃』を執筆。博文館の雑誌『冒険世界』に投稿するが、掲載はされなかった[4]。卒業後は貿易会社社員、古本屋、支那そば屋など多くの仕事に勤務。 1917年(大正6年)11月、三重県鳥羽の鳥羽造船所電機部(現・シンフォニア テクノロジー)に就職。庶務課に配属されたが、技師長に気に入られ、社内誌『日和(にちわ)』の編集や子供へおとぎ話を読み聞かせる会を開くなど地域交流の仕事に回された[5]。無断欠勤などもあったが許されていたという。『日和』では編集のみならずイラストも描いている[6]。この会社は1年4ヶ月で退職するが、この時期の体験が『屋根裏の散歩者』『パノラマ島奇談』の参考になったという[5]。 1919年、読み聞かせ会で知り合った坂手島の小学校教師である村山隆子と結婚する[6]。 1923年(大正12年)、森下雨村、小酒井不木に激賞され[7]、『新青年』に掲載された『二銭銅貨』でデビューする。欧米の探偵小説に強い影響を受け[8]、本格探偵小説を志す一方で『心理試験』『赤い部屋』といった変格とみなせるような作品も書き、黎明期の日本探偵小説界に大きな足跡を残した。『人間椅子』や『鏡地獄』に代表されるようなフェティシズムや怪奇小説の部類も初期から執筆しており、岩田準一とともに研究していた衆道の少年愛・少女愛、男装・女装、人形愛、草双紙、サディズムやグロテスク、残虐趣味などの要素を含んだ通俗探偵小説も、昭和初期から一般大衆に歓迎された。 当初は小説家として生計を立てるか悩んだと述べており、デビュー作『二銭銅貨』以降は、あくまで兼業の趣味の範疇として散発的に短編小説を執筆するに留まっていた。1925年に森下の企画で『新青年』に6ヶ月連続短編掲載するにあたってその2作目の『心理試験』が好評で踏ん切りがついたと述べている。ここで会社を辞めて小説家一本にしたが、探偵小説家としては早くも行き詰まり、連続掲載の6作目に当たる『幽霊
就職と結婚
作家デビュー
海外作品に通じ、翻案性の高い作品として『緑衣の鬼』『三角館の恐怖』『幽鬼の塔』などを残している。このほか、探偵小説に関する評論(『幻影城』など)を残している。
また、少年向けとして1936年に発表した、明智小五郎と小林少年や少年探偵団が活躍する『怪人二十面相』は、少年層からの圧倒的な人気を得てシリーズ化され、その他にも少年向けの作品が作られるようになった。
晩年から死去平井家の墓の右脇に江戸川乱歩の墓標がある
戦後も主に評論家、プロデューサーとして活動するかたわら、探偵小説誌『宝石』の編集・経営に携わった。また、日本探偵作家クラブの創立と財団法人化に尽力した。同クラブに寄付した私財100万円の使途として江戸川乱歩賞が制定され、同賞は第3回より長編推理小説の公募賞となる。晩年は高血圧、動脈硬化、副鼻腔炎(蓄膿症)を患い、さらにパーキンソン病を患ったが[9]、それでも家族に口述筆記させて評論・著作を行った。
1965年(昭和40年)7月28日、蜘蛛膜下出血のため東京都豊島区池袋の自宅で70歳で没した[10]。戒名は智勝院幻城乱歩居士。31日、正五位勲三等瑞宝章を追贈される。8月1日、推理作家協会葬が行われた。墓所は多磨霊園(26区1種17側6番)。 創作活動初期は、『D坂の殺人事件』『心理試験』など、いわゆる本格派推理小説(探偵小説)の短編作品を執筆し、日本人の創作による探偵小説の基礎を築いた。トリックや題材に欧米の諸作からの影響を感じさせるが、単なる模倣でなく乱歩の独創性が活かされている。 探偵小説の王道というべき本格派を志向していたが、それらの作品は大衆からあまり支持されなかった。大衆は幻想・怪奇小説、犯罪小説に分類できる変格ものと称される作品を好んだ。『赤い部屋』『人間椅子』『鏡地獄』などが代表的な変格ものといえる。 1926年(大正15年)12月より1927年(昭和2年)2月までの約3か月間、朝日新聞に『一寸法師』を連載する。病欠の山本有三の代役だった。作品は評判がよく、映画化された。しかし乱歩は小説の出来に満足できず休筆宣言をし、各地を放浪したという(以後、戦前の乱歩は「休筆中に放浪」というパターンが多くなる)。 1928年(昭和3年)8月、14か月の休筆のあと、乱歩は自己の総決算的中篇『陰獣』を発表する。これは変態性欲を題材にした作品で、不健康とみなされた一方、横溝正史(当時の探偵小説の雑誌『新青年』の編集者)により「前代未聞のトリックを用いた探偵小説」と絶賛された。戦前の本格探偵小説の新時代を築いたといえる。『新青年』は『陰獣』を8月増刊号、9月号、10月号の三回に分けて掲載したが、初回の載った増刊号は増刷するほどで、当時の世評の高さがうかがえる。 1929年(昭和4年)8月より通俗長編『蜘蛛男』をかねてより執筆依頼のあった『講談倶楽部』に連載する。この作品は自身の趣向であった「エログロ・猟奇・残虐趣味」を前面に押し出したものだった。作品は大好評で、これを契機として乱歩は続けざまにヒット作を連発させる。単行本は数十版を重ねた。これは探偵小説をポピュラーな地位に押し上げたといえる(通俗長編について乱歩は、黒岩涙香やモーリス・ルブラン、ポーなどから着想をえたと言っており、事実、そのような作品が多い)。 乱歩の通俗長編が大衆に歓迎された理由は、作品自体の面白さ以外に、時代的背景が影響していたといえる。金融恐慌の影響で、世間にはいわゆる「エログロナンセンス」といわれる退廃的気風が満ちていた[11]。これらの通俗長編は、初期作品に比べると破綻があり(乱歩自身認めている)、これがミステリーの低俗化を招いたとする批判がある。評論家の権田萬治は、著書『日本探偵作家論』において、乱歩の長編は翻案など一部を除きほとんどがプロットに破綻をきたしていると述べ、作品としての完成度を批判している。一方、乱歩と長年親交のあった評論家中島河太郎は、1974年刊の『小学館万有百科事典』(ジャンルジャポニカ)において、低俗性を認める一方で、市場拡大の貢献を言及している。
業績
小説家として