logo江戸城
(東京都)
別名千代田城
城郭構造輪郭式平城または平山城
天守構造・1606年新築天守(解体、非現存)
連立式層塔型5重5階地下1階[1]
・1621年再築天守(解体、非現存)
独立式層塔型5重5階地下1階
・1635年再築天守(焼失、非現存)
独立式層塔型5重5階地下1階
築城主太田道灌
築城年1457年(長禄元年)
主な改修者徳川家康、秀忠、家光
主な城主太田氏(1457年-1486年、1561年-1577年)[2]
扇谷上杉氏(1486年-1524年)[2]
後北条氏(1524年-1561年、1577年-1590年)[2]
徳川氏(1590年-1868年)[2]
1868年以降皇居[2]
遺構現存櫓・門、石垣・土塁・堀
指定文化財国の重要文化財(桜田門、田安門、清水門)
特別史跡
再建造物富士見櫓、伏見櫓・多聞櫓
桜田巽櫓、大手門
位置
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度41分17.97秒 東経139度45分15.72秒 / 北緯35.6883250度 東経139.7543667度 / 35.6883250; 139.7543667
江戸城(えどじょう)は、東京都千代田区千代田(武蔵国豊嶋郡江戸)にあった日本の城。江戸時代は江戸幕府の政庁および徳川将軍家の居城だった。明治時代以降は皇居となっている[3]。
千代田城(ちよだじょう)及び江城(こうじょう)、東京城(とうけいじょう)が別名として知られている[3]。 現在の江戸城の前身は、1457年に麹町台地の東端に扇谷上杉家の家臣太田道灌が築いた平山城である。1590年に徳川家康が江戸城に入城した後は徳川家の居城となり、江戸幕府が開幕すると、大規模な拡張工事が、特に慶長期のおよそ10年の間に集中的に行われ、またその後も2度ほど拡張工事が行われ、総構周囲約4里[4] と、日本最大の面積の城郭になった[5]。およそ260年にわたり、幕府の政庁、15代におよぶ徳川将軍およびその家臣団が政務を行う場所となった。将軍は江戸城内に住み、将軍の家族女性らが住む大奥も設けられた。将軍の補佐役の老中やその下の若年寄などは月番制つまり月替わり制でそれぞれ数名が担当し、江戸城周辺の屋敷から日々登城(出勤)した[6]。 江戸城に出勤する役方と呼ばれる人々は老中や若年寄以外にも目付、奉行、小姓等々もいた。また江戸城には番方と呼ばれる警護・警備の仕事をする人々も必要で、一日を3分割して3交代制で勤務した。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}それらを合算すると日中の江戸城には五千人ほどの男性が常駐していたと推算され、さらに大奥には約一千名ほどの婦女子がいたと推算されるので、時間帯により人の出入りや増減はあるにせよ日中は六千名ほどが江戸城内にいたと推算される[要出典]。 1868年(慶応4年) 3月、戊辰戦争で優勢となった新政府の東征軍が迫る中、幕臣・勝海舟と東征軍参謀・西郷隆盛の会談により江戸城への総攻撃が中止された[7]。江戸開城により徳川家は江戸城から退出し、代わりに東征軍大総督有栖川宮熾仁親王が入城した[2]。そして、京都から明治天皇が行幸した折の居所「皇居」となり、短期間だが東京城と改名され[8]、その後は皇居、宮城(きゅうじょう)として使われている(東京奠都)。現在は吹上庭園が御所、旧江戸城西ノ丸が宮殿の敷地となっている。その東側にある江戸城の中心部であった天守閣・本丸・二ノ丸・三ノ丸の跡一帯は、宮内庁の管轄下にあり、書陵部・楽部の庁舎などがあるが、皇居東御苑として、宮中行事に支障のない限り一般にも公開されている[9][10]。平成以降、皇位継承に伴う重要儀式「大嘗祭」の会場である「大嘗宮」は、本丸の跡地に設営されている[11][12]。南東側の皇居外苑と北側の北の丸公園は、環境省所管の国民公園として開放されている[13]。 城跡の一部は国の特別史跡に指定されている[14]。 江戸(武蔵国豊島郡江戸郷。現在の東京都区部の一部)は、元来、西に平川(日本橋川の前身で日比谷入江に注いだ)、東に神田山(駿河台)に挟まれた地を指した。浅草方向へ向かう古代の東海道(常陸国へ至る)が平川河口部を通過していた。 この地に最初に根拠地を置いた武家は江戸重継で、この地名を名乗りとした。平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて江戸氏の居館は、後世の江戸城と同じ位置(麹町台地東端)に置かれたとの説がある。 これに対し、歴史学者の山田邦明は、江戸氏の居館は名乗り通りに豊島郡江戸郷内であり、後世の江戸城が築かれたかつての荏原郡桜田郷に存在することはあり得ないと論じた。山田は館の所在地を現在の水道橋付近と推定した。 なお、桜田郷に関しては室町時代前期の応永30年(1423年)に江戸氏一族である江戸大炊助重継が「武州豊嶋郡桜田郷」の土地売却を巡って訴訟を起こしていることから、鎌倉時代以降の江戸氏の発展によって江戸郷に隣接する桜田郷も江戸氏の支配下に置かれ、その後桜田郷が豊島郡の一部として認識され、更に江戸郷を中心とした「江戸」の一部になったと推測されている[15][16]。 15世紀の関東の騒乱で江戸氏が没落し江戸郷・桜田郷から退去したのち、扇谷上杉家の上杉持朝の家臣である太田道灌が、享徳の乱に際して康正3年(1457年)に、江戸城を後世と同じ位置に築城した。
概要
歴史
築城まで
築城
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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