江戸上り(えどのぼり)とは、江戸幕府へ派遣された琉球国中山王府の慶賀
使節のこと。琉球使節(りゅうきゅうしせつ)とも呼ばれる。江戸に「上る(のぼる)」という表現は琉球が下で江戸が上であるという前提に立つため、近年は、史料で多く見られる「江戸立」(えどだち。江戸立ち、とも書く)という表記が広まりつつある[1]。江戸上りは、薩摩の琉球侵攻後の1634年から、幕末の1850年まで間に18回行われた。これらには、琉球国王即位の際に派遣される謝恩使と、幕府将軍襲職の際に派遣される慶賀使とがあった。
なお、1872年に明治維新の慶賀使が上京したが、これは通常「江戸上り」としては数えない。
旅程・道中天保3年(1832年)の琉球使節
六月ごろ季節風に乗り琉球を出発、薩摩山川港に至る。琉球館にてしばらく滞在し、九月ごろ薩摩を出発、長崎を経て下関から船で瀬戸内海を抜けて大阪に上陸。京都を経て東海道を東へ下り江戸に着くのは十一月ごろである。1?2ヶ月ほど滞在し、年が明けてから江戸を出発、大阪までは陸路、その後海路にて薩摩を経由し琉球へ戻る。ほぼ一年掛かりの旅であった。
その道中は「異国を支配する薩摩藩」および「異国からの使節の来訪を受ける幕府」を前面に出すことによって両者の権威高揚に利用された。 使節には、琉球音楽を演奏したり琉球舞踊を踊るための要員も含まれており(御座楽の項を参照)、特に路次楽は江戸上りのルート上にある地域の農村芸能にも影響を与え、また将軍や幕閣の前でも披露された。その他、随行員には和歌・茶道をはじめとする諸芸能に通じている者も派遣されており、これらの人的交流を通して中国と日本の文化が渾然一体となった琉球独自の文化が形作られていった。 江戸上り一覧表(明治維新慶賀使を含む)回次年代
文化交流
江戸上り18回の詳細
第1回の江戸上りでは、実際は京都に滞在し、江戸下向はなかった。
第1回・第7回・第8回は慶賀使と謝恩使が同時に派遣された(下表参照)。
第11回の慶賀使の薩摩藩側の引率者は平田靱負。
西暦(干支、中国元号、和暦)国王将軍目的正使副使
11634年(甲戌、崇禎7年、寛永11年)尚豊徳川家光慶賀使佐敷王子朝益(尚文)なし
謝恩使金武王子朝貞(尚盛)なし
21644年(甲申、順治元年、寛永21年)尚賢徳川家光謝恩使国頭王子正則(馬国隆)なし
31649年(己丑、順治6年、慶安2年)尚質徳川家光謝恩使具志川王子朝盈(尚亨)なし
41653年(癸巳、順治10年、承応2年)尚質徳川家綱慶賀使国頭王子正則(馬国隆)なし
51671年(辛亥、康熙10年、寛文11年)尚貞徳川家綱謝恩使金武王子朝興(尚熙)越来親方朝誠(向美材)
61682年(壬戌、康熙21年、天和2年)尚貞徳川綱吉慶賀使名護王子朝元(尚弘仁)恩納親方安治
71710年(庚寅、康熙49年、宝永7年)尚益徳川家宣慶賀使美里王子朝禎(尚紀)富盛親方盛富(翁自道)
謝恩使豊見城王子朝匡(尚祐)与座親方安好