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『むさしあぶみ』より、明暦の大火当時の浅草門。牢獄からの罪人解き放ちを「集団脱走」と誤解した役人が門を閉ざしたため、逃げ場を失った多数の避難民が炎に巻かれ、塀を乗り越えた末に堀に落ちていく状況。
江戸時代における江戸の火事(えどのかじ)は、「火事と喧嘩は江戸の華」という言葉が残り、現代では「火災都市」と呼称される[注釈 1]ほど、頻繁に発生した。
大火が頻発し、都市の広大な市街地を繰り返し焼き払った史実は、世界でも類例がないとされる[2]。
江戸の火事は祝融や回禄とも呼ばれ、大火の様相を紅葉に見立てることもあった[注釈 2]。
火事の回数関ヶ原の戦い翌年の慶長6年(1601年)から、大政奉還の行なわれた慶応3年(1867年)に至る267年間に、江戸では49回の大火が発生した。江戸以外の大都市では、同じ267年間で京都が9回、大阪が6回、金沢が3回などであり、比較して江戸の多さが突出しているといえる[注釈 3]。
大火以外の火事も含めれば267年間で1798回を数え、慶長6年(1601年)からの100年間で269回、元禄14年(1701年)からの100年間で541回、寛政13年/享和元年(1801年)から慶応3年(1867年)までの67年間で986回となり、人口の増加による江戸の繁栄に比例して、火事の回数も増加していった。特に嘉永3年(1851年)から慶応3年(1867年)までの17年間では506回もの火事が発生しているが、これは江戸幕府の権力低下による治安の悪化が大きく影響しているとされる[注釈 4]。
主な大火以下に江戸時代に発生した主な大火をあげる(月日は、上段は旧暦、下段は新暦)[注釈 5]。大火のうち、明暦の大火・明和の大火・文化の大火を総称して江戸三大大火と呼ぶことがある[6]。
年月日名称別称/通称死者数概略
1601年/慶長6年閏11月2日
(1601年12月26日)/(死者数不詳)江戸で記録された最初の大火。被災状況は詳らかではないが、江戸全市を焼亡したという。( ウィキソースには、慶長見聞集
の慶長6年の「江戸町大焼亡の事」原文があります。)
1641年/寛永18年1月29日か30日
(1641年3月10日か11日)桶町の大火
000400/死者数100人[7]京橋桶町から出火し、烈風により延焼。焼失した町97・大名・旗本屋敷121。江戸の大半を焼失。鎮火の陣頭指揮を執っていた大目付の加賀爪忠澄が煙に巻かれて殉職[8]。要請を受けて消火活動を行っていた相馬藩主・相馬義胤が落馬して重傷[7]。この大火がきっかけで、寛永20年防火体制の見直しが行われ、大名火消設置の契機となった[8]。
1657年/明暦3年1月18日、19日
(1657年3月2日、3日)明暦の大火振袖火事107000/死者は最大で
10万7000と推計山の手3箇所から出火し、両日とも北西風により延焼。江戸の大半が被災し江戸城天守も焼失した。江戸時代最大の被害を出した大火であり、江戸の都市計画や消防制度に大きな影響を与えた。
1682年/天和2年12月28日
(1683年1月25日)天和の大火八百屋お七の火事[注釈 6]003500/死者830?3500駒込大円寺から出火し、北西風により延焼。焼失した武家屋敷241・寺社95。
1698年/元禄11年9月6日
(1698年10月9日)勅額火事中堂火事[注釈 7]003000/死者3000京橋南鍋町から出火し、南風により延焼。焼失した町326・武家屋敷308・寺社232・町家1万8700。
1704年/元禄16年11月29日
(1704年1月6日)水戸様火事
/(死者数不詳)小石川水戸屋敷から出火し、火事の途中で風向きが変わった(南西風から北西風)ため被害が拡大した。焼失した武家屋敷275・寺社75・町家2万。この6日前の11月23日に起きた