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出典検索?: "江戸っ子"
江戸っ子(えどっこ、江戸っ児)とは、徳川時代の江戸で生まれ育った住民を指した言葉で、特定の気風を持った者を指す事が多い。 江戸時代初頭の日比谷入江の埋立などにより、江戸城と武家屋敷を取り巻く広大な惣構(そうがまえ)が構築され、江戸は「大江戸八百八町」とも称される大都市へと発展を遂げ、近世日本を代表する都市のひとつとなった。武家による都市の生成とともに、その立地から各町に商工業が隆盛し、江戸文化にみえる気質を持った都市住民(町人)が各町で成立した。俗謡の「意気な深川、いなせな神田(佃節)」などに代表される、このような気質を持った江戸庶民を「江戸っ子」と称した。 江戸住民を指す呼称としては、古くは「江戸もの」と呼び、明和以前には「江戸っ子」という表現は見受けられない。文献上の最古のものは明和8年(1771年)に作られたと思われる川柳「江戸ッ子のわらんじをはくらんがしさ」という句である[1][2]。また寛政9年(1797年)発行の洒落本『廓通遊子』にも江戸っ子という表記が見られる[3]。文化文政年間頃には「江戸っ子」を自称するものが増加しているという指摘がなされている[3]。この頃には江戸っ子は「浅薄で、向こう見ずで、喧嘩っ早い」という形容が成されていた[4]。 浜田義一郎、石母田俊
概要
成立
江戸時代に近世日本を代表する都市のひとつとなった江戸は、武家の町として発展するとともに、特色ある文化や気質を持った江戸庶民(都市住民)が派生した。 多くの研究者は江戸っ子の性格として「見栄坊」「向こう見ずの強がり」「喧嘩っ早い」「生き方が浅薄で軽々しい」「独りよがり」などの点をあげている[2]。また「江戸っ子は三代続いて江戸生まれでなければならない」という概念もよく知られている[6]。また江戸っ子の性格をあらわす表現としては「江戸っ子は五月の鯉の吹き流し[7]」、「江戸っ子の生まれ損ない金を貯め」という川柳に見られるような「江戸っ子は宵越しの銭は持たない」という金離れの良さを著した言葉がある。
江戸っ子の概念