江戸しぐさ
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江戸しぐさ(えどしぐさ)とは、芝三光(しば・みつあきら)[注 1][1]によって創作・提唱され、NPO法人江戸しぐさ(現・NPO法人日本のこころ・江戸しぐさ)が「江戸商人のリーダーたちが築き上げた、上に立つ者の行動哲学」[2]と称し普及、振興を促進する概念・運動である[3]。「江戸しぐさ」はNPO法人江戸しぐさが「紙類、文房具類、印刷物」「セミナーの企画・運営または開催、書籍の制作、電子出版物の提供、教育・文化・娯楽・スポーツ用ビデオの制作(映画・放送番組・広告用のものを除く)」に関し、商標権を有している[4][5]

しかし2024年時点で、江戸しぐさが江戸時代に実在したという事実は史料によって確認されていない。このことについてNPO法人江戸しぐさの理事長である越川禮子[6]は「江戸しぐさは口伝で受け継がれてきたものであるため、資料として残ってはいない」と述べている[7]。また、明治政府が江戸しぐさの摘発を行い、さらに多数の江戸っ子を虐殺した[8]、江戸しぐさを広めるための秘密結社が存在した[9]といった振興団体独自の歴史観が前提となっている。

江戸文化研究家で法政大学総長の田中優子は「空想・創作」であるとニュースで発言し、と学会会員で偽史・秘史について著述活動を行っている作家の原田実も根拠のない「(創作)発明」である可能性が高いと自著等で指摘するなど、「江戸しぐさ」が江戸期において実際にはおこなわれていたわけではなく、そもそも存在自体も皆無だったことが、明らかにされつつある(後述)。
江戸しぐさの登場

文献で確認できる限りで「江戸しぐさ」という語の初出は、1981年の読売新聞の「編集手帳」で紹介されたものであり[10]、2004年[11]、また翌2005年にも公共広告機構(現・ACジャパン)で江戸しぐさが取り上げられた[12][13]電通広告ジャーナリストの岡田芳郎が越川禮子の聞き書き記事を書いている[14]。企業の研修や学校などにおける教育でも使用され、小学校の道徳の題材にも使われている[15][16][17][18]。また、2012年(平成24年)度から、育鵬社公民教科書に取り入れた[19][20]。2016年にはクラウドファンディングにより一般社団法人「芝三光の江戸しぐさ振興会」の書籍『おもき心』が制作された[21]

江戸しぐさを推進する人々は、江戸しぐさを以下のように説明している。
江戸講と「江戸っ子狩り」

江戸しぐさは商売繁盛の秘伝であり、あまり公にされたものではなく、江戸商人の組織していた「江戸講」で口授されるものだった[22]

しかし、江戸開城の時、「江戸講」のネットワークを恐れた新政府軍が江戸しぐさの伝承を失わせ、江戸しぐさの伝承者である江戸っ子たちを虐殺した、その虐殺たるや凄まじいもので、ソンミ村虐殺事件ウンデット・ニーの虐殺に匹敵するほどの血が流れた、と越川は述べている[23] 。また、この時に江戸商人は江戸しぐさについて書かれた古文書も全て焼却し、江戸の空を焦がしたという。勝海舟は生き残った江戸っ子数万を両国から武蔵、上総などに逃がし、彼らは「隠れ江戸っ子」として潜伏した[22]池田整治は、江戸開城は官軍史観でしかなく、江戸しぐさ伝承者は、老若男女にかかわらず、わかった時点で新政府軍の武士たちに斬り殺され、次いで会津若松でも大虐殺があり、維新以降もこの大殺戮は続いた。この大虐殺は世界金融支配者に操られた薩長によるもので、現在日本も薩長に支配されているため、この事実が隠蔽されたと述べている[24]

江戸しぐさを伝えていた種々の江戸講は国家総動員法で解散させられた[25]秘密結社として存続していた江戸講はGHQに認められ、江戸講は薩長から日本人を救ったマッカーサーに感謝したという。また、江戸しぐさはニューヨーク五番街でも一世を風靡し、スターズ・アンド・ストライプス紙に掲載されたとしている[26]
芝三光(本名:小林和雄)

江戸しぐさの教育組織である「江戸講」の長である江戸講元の子孫だったという小林和雄(1928[27]-1999年1月22日[28])は、昭和に入ってから江戸しぐさを復興した[29]。小林の父は外交官、母は米国企業の英文タイピストであった。彼は母がカナダのバンクーバーから帰国する途中の船中で生まれたが、愛人の子であったために世間をはばかり、母方の祖父に預けられた。そこで江戸しぐさによる教育を受けた[30]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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