凡例江川英長
時代戦国時代 - 江戸時代初期
生誕永禄4年(1561年)
死没寛永9年6月27日(1632年8月12日)
改名英長、荷年(号)
別名太郎左衛門
戒名日啓
主君北条氏直、徳川家康、北条氏直、徳川家康、秀忠
氏族清和源氏頼親流宇野氏族江川氏
父母江川英吉
兄弟英長、源四郎、江川吉久
江川 英長(えがわ ひでなが)は、戦国時代から安土桃山時代の武将。 父と同じく後北条氏に仕えたが、しばしば三河国の徳川家康を訪ねて親交があった。だが笠原隼人という同僚に徳川家と昵懇であると讒言されたため、笠原を殺して三河国に出奔した。北条氏規の口添えがあり、家康に仕え戸田尊次の下に配属された。 天正10年(1582年)の北条氏と徳川氏の戦いであった「天正壬午の乱」ののちの講和条件のひとつとして、北条氏から「江川家の跡取りなので返還して欲しい」と申し入れがあり、天正11年(1583年)に家康の次女督姫が北条氏直の正室として入嫁した際に、これに従って韮山に帰った。 天正18年(1590年)小田原征伐の際、再度出奔して徳川軍に加わった。韮山城に籠城した父英吉と通じて、開城和睦の交渉を行った。戦後は父も赦免され、江川家は旧領を与えられた。慶長元年(1596年)に伊豆代官
略歴
文禄2年(1593年)、於万が、英長の養女として家康にお目見えし、家康の側室となった[1]。[注釈 2]
大坂の陣には子の江川英政と共に出陣した。また鎌倉時代より伝わる造酒の室の修理を許され、後に家康・秀忠父子に酒(江川酒・江川樽)を献じて賞された。
寛永9年6月27日、72歳で死去した。家督と領地および伊豆韮山代官職は子の英政が相続した。
韮山代官の采配する地は当初は5千石以下であったが、元禄年間以降に周辺の代官職の役割と支配地を次々統合することとなり、時代により増減はあるものの、伊豆国および周辺国の徳川家直轄領(天領)を支配経営する一大役職となった。韮山代官の現地代官所は旧・韮山城の一角に建てられた江川家屋敷に併設された。以降の韮山代官職は職務不正により罷免された中断時期がありつつ、幕末まで江川家が相続した。
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 1601年に内藤は駿河国駿府城に転封となり、韮山城は廃城となった。
^ 於万は慶長7年(1602年)3月7日には頼宣(紀州徳川家の祖)を、同8年(1603年)8月10日には頼房(水戸徳川家の祖)を出産する[2]。
出典^ 勝浦市史 2006, p. 405.
^ 勝浦市史 2006, p. 406.
参考文献
「寛政重修諸家譜」巻第315