江川宇礼雄
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えがわ うれお
江川 宇礼雄
1934年頃の江川宇礼雄
本名ウィリー・メラー
江川 ウレオ
別名義江川宇禮雄
江川宇礼男
西山普烈
生年月日 (1902-05-07) 1902年5月7日
没年月日 (1970-05-20) 1970年5月20日(68歳没)
出生地 日本神奈川県横浜市山下町(現在の同県同市中区同町)
民族ドイツ人日本人ハーフ
職業俳優映画監督脚本家
ジャンル演劇劇映画時代劇現代劇サイレント映画トーキー)、テレビ映画
活動期間1920年 - 1923年
1927年 - 1970年
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江川 宇礼雄(えがわ うれお、1902年〈明治35年〉5月7日 - 1970年〈昭和45年〉5月20日)は、日本俳優映画監督脚本家。本名はウィリー・メラー(後に江川 ウレオ)。愛称は「ウレシュウ」。
生涯
生い立ち

1902年(明治35年)、ドイツ極東艦隊海軍病院薬局長として来日したドイツ人のフリードリッヒ・ウィルヘルム・メラーと河内出身の日本女性ゑい[1]の次男として神奈川県横浜市山下町(現在の同県同市中区同町)に生まれる。幼い時に、両親が離婚。父は長男を連れてドイツに帰国、母にひきとられた江川は本名を「ウィリー」から「ウレオ」に改名した。

1915年(大正4年)に神奈川師範附属小学校を卒業、同級生に青柳信雄、中田晴康(脚本家)、国木田虎雄高橋英一がいた[2]セント・ジョセフ・カレッジ普通科にすすむが、混血児であることから不当な差別を受けてぐれてしまい、その頃には横浜界隈では有名な不良少年となっていた。
大活入社

第一次世界大戦の最中の1917年(大正6年)3月に「敵国ドイツ人の子供」ということで、放校処分になる。正則中学に入学するも1919年に2学年で中退、横浜のチャブ屋街に住んでいた谷崎潤一郎宅に出入りし、同年9月に谷崎が文芸顧問をしていた大活に入社するが、谷崎の愛人で義妹の葉山三千子と駆け落ちする[1][2]中河与一はのちに『続・探美の夜』(1958年)で二人のことを書いている(江川は実名、三千子は仮名)[1]。1920年9月に高輪中学(現・高輪高等学校)の3学年に編入するも、翌1921年2月に中退、弟(佐藤夏樹)宅に居候していた佐藤春夫の元に転がり込む[1]

江川は谷崎に大変可愛がられた時期もあり、谷崎の初期作品には江川をモデルとしたものがある。映画界では、「ウレシュウ」の愛称で親しまれた[3]
デビュー

当初、江川は監督志望だったが、大活の経営状態が悪化し、高松プロ、小笠プロなどを渡り歩き、映画仲間の内田吐夢井上金太郎渡辺篤二川文太郎と共に牧野教育映画に入り、1921年(大正10年)の『兄弟仲は?』で映画初出演する。その後は監督助手に回るも、映画館の営業主任などを務めた。

1923年(大正12年)、仲間との窃盗容疑で逮捕され、年末懲役一年の判決を受けるが、里見ク久米正雄、佐藤春夫らがその文才を惜しんで減刑嘆願を行い、24年(大正13年)3月、控訴審で執行猶予がつく。
監督

1927年(昭和2年)、現代劇を制作していた阪東妻三郎プロダクションで、念願だった初監督作品として『夜の怪紳士』を撮る(脚本兼任)。以後監督業に専念して、「紅蓮地獄」(原作は今東光)などを撮った。

しかし、その後は不遇が続き、1931年(昭和6年)に高田稔の紹介で俳優として松竹蒲田撮影所に入社。当初脇役として過したのち、主演級に抜擢され、以後島津保次郎小津安二郎の作品などに主演し続ける。
主演スター

1934年(昭和9年)9月、岡譲二逢初夢子らと松竹蒲田を脱退し、「協同映画」を設立、日活と提携する。同社で『多情仏心』(原作は里見ク)に出演。1935年(昭和10年)、日活多摩川に、岡譲二らと並ぶ主演スターの一人として入社する。この頃の代表作に『ジャズの街かど』『海国大日本』『丸髷と文学』がある。1940年(昭和15年)に東宝に移り、大作『熱砂の誓い』に準主役として出演する。

第二次世界大戦中も同盟国のドイツとの混血であることから戦前同様の活躍を見せ、『緑の大地』 (1942年)に出演している。戦後は新東宝で活躍し、1957年(昭和32年)にフリーとなった。テレビ出演も多く、特に1966年(昭和41年)のTBSウルトラQ』での一の谷博士役が有名。
晩年

1965年(昭和40年)に江川の一人娘が結婚する際、江川は妻子を連れてドイツに行き、父に引き取られ生き別れになっていた兄と再会、父の墓参を果たしたという。その5年後の1970年(昭和45年)5月20日、東京都港区の虎の門病院心不全のため死去。68歳。告別式は同月22日、東京都世田谷区の自宅で行われた[4]
人物・エピソード

1922年(大正11年)、
京都一商に通学していたマキノ雅弘は、御陵参拝の行事を父親のマキノ省三のロケに行くと言う命令で休まされ、四条小橋で『人は人道』のロケに出ているのを級友たちに見つかってしまい、退学処分となってしまった。省三は担任あてに手紙を書いたが相手にされず、雅弘はそのまま学校を飛び出した。すると表には雅弘を心配して、今道潤三をはじめ、内田吐夢漠与太平、江川らが集まっていた。彼らは校長室に直談判に行き、退学処分を撤回してくれた[5]

稲垣浩は親友で、阪妻プロで2人が出会った時は稲垣は俳優、江川は助監督と、後と立場が逆だった。当時月給20円と貧しかった江川は稲垣にカツ丼をおごってもらってから親しくなり、煙草や食事も2人で分けるほどになった。阪妻プロで1927年(昭和2年)にチーフ助監督となったとき、稲垣と伏見信子の主演で『九番倉庫』という脚本を書き、これがヒットしたため、会社から「すぐに第二作の脚本を書け」と言われたが、江川は「監督をさせてくれるなら書きます」と返答。こうして『夜の怪紳士』という無国籍物の映画で監督デビューとなった。

稲垣はこの映画で西条香代子と恋人役を演じることになったが、大柄な西条と小柄な稲垣では画にならず、稲垣の提案でソファーでラブシーンを撮ることになった。江川は雰囲気を出すため自らヴァイオリン(あまり上手でない)で「トロイメライ」を弾いて、苦心してこのシーンを撮ったという。

江川と稲垣はその13年後の1939年(昭和14年)に日活京都の『尊王村塾』で立場を逆転させて再会した。この映画は赤倉温泉スキー場がロケ場所となったが、稲垣はスキー経験がなかった。そこで江川が用具の見立てから足腰の鍛錬法、ワックスによる手入れ、滑降術など、4週間のロケ中に指導した。江川自身は一度も滑らなかったが、おかげで稲垣はスキーが滑れるようになった。ところがのちに稲垣は日活多摩川の人から「ウレさんはスキーどころかダンスも踊れませんよ」と言われ、驚いたという。

若いころ、酒に酔うと看板や電柱、ポストなどに頬ずりをする奇癖があった。助監督だったころに稲垣と神戸ロケがあり、飲みに行った後、当時元町を走っていた市電に頬ずりをしたいと言って走り出し、稲垣を慌てさせた。当時稲垣はまだ酒が飲めず、終始江川のお守り役だったので、なんとかなだめて駅前の旅館まで連れ帰ったものの、柵の向こうの貨物列車を見つけるや、いきなり柵を乗り越えて列車に頬をすりはじめた。


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