江國 滋(えくに しげる、1934年8月14日 - 1997年8月10日)は、東京出身の演芸評論家、エッセイスト、俳人。俳号は滋酔郎。 この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
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小学校は慶應義塾幼稚舎であったが[1]、1945年秋、東京から静岡県庵原郡蒲原町(現在の静岡市清水区)に転校して徹底的ないじめを受ける[2]。当時の経験を後に「怨み骨髄、あのときのいじめの下手人たちの顔も名前も身体的特徴も、いまだに忘れていない」と語り、文筆家になってからも紀行文の中で当時の恨みつらみを吐露している[2]。
静岡県立清水東高等学校を経て慶應義塾大学法学部政治学科卒。新潮社に入社、十年間[3]『週刊新潮』の編集部にいたが、1966年に退社。安藤鶴夫が企画した雑誌『寄席fan』の編集にたずさわるが、3号で廃刊。以降、文筆業に専念。
初の単行本『落語手帖』以来、初期は演芸評論を主に行う。その後、随筆や紀行文を書くようになる。
また、東横落語会、東京落語会(NHKが主催)の企画委員もつとめた。
1969年に小沢昭一、永六輔らと共に、東京やなぎ句会を発足。俳人としては、俳諧味に溢れた軽妙な作風で知られ、殊に挨拶句の名手として知られた。また長年『日本経済新聞』の投句欄「日経俳壇」の選者を務めた。俳句に関しては独学に近く特定の師を持たなかったが、鷹羽狩行とは親交が深く添削なども受けていた。
1989年の『日本語八つ当たり』で小林よしのりの漫画『おぼっちゃまくん』の「茶魔語」を批判的に書き、小林とテレビ番組で対決したことが『ゴーマニズム宣言』の前身「おこっちゃまくん」(第1巻に収録)に書かれている。
アマチュアのマジシャンとしても有名で、ナポレオンズに「江國さんのカードマジックは話術まで入れたら世界一だ」と誉められたことを大変喜んでいた。
FM東京(現 TOKYO FM)の番組『FMモーニング東京』の書評コーナー「江國滋の読書の散歩道」などでも知られる。将棋も趣味であり、「将棋ペンクラブ大賞」の選考委員を1995年・1996年に務めていた(1983年の第41期名人戦<加藤一二三 - 谷川浩司>の観戦記も担当)。
1997年春に食道癌と診断され、手術を受けたが、この手術の合併症により、同年8月10日に死去。享年62。闘病中の句集『癌め』及び俳句日記『おい癌め酌みかはさうぜ秋の酒』が没後に出版される。
長女は小説家の江國香織。
著作リスト
『落語手帖』(普通社 1961年) のち旺文社文庫、ちくま文庫
『落語美学』(東京書房 1965年) 同、同
『落語無学』(東京書房 1969年) 同
『絵本・落語風土記』(青蛙房 1970年) のち河出文庫
『現代たれんと気質』(三一書房 1970年)
『人間山脈』(藝術生活社 1972年) 「絵のない似顔絵」旺文社文庫
『阿呆旅行』(新潮社 1973年) のち文庫
『東京探検』(藝術生活社 1973年)
『語録・編集鬼たち』(産業能率短期大出版部 1973年) 「鬼たちの勲章」旺文社文庫
『遊び本位』(北洋社 1974年) のち旺文社文庫