江原素六
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1913年頃の江原素六
生年月日1842年3月10日
出生地武蔵国角筈(現:東京都新宿区
没年月日 (1922-05-20) 1922年5月20日(80歳没)
死没地静岡県沼津市
出身校昌平坂学問所
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江原 素六(えばら そろく、天保13年1月29日1842年3月10日)- 大正11年(1922年5月20日[1])は、旧幕臣政治家教育者、キリスト者。旧名は鋳三郎。大日本平和協会副会長(会長は大隈重信[2]
概要

幕府御家人の嫡子として武蔵国角筈(現:東京都新宿区)に生まれる。房楊枝作りを手内職とする貧しい家庭に育ち、辛苦を舐めながらの生活であったが、剣術、洋学を学び、講武所の教授方として取り立てられる。鳥羽・伏見の戦いでは、人材不足の幕府側の指揮官として戦ったことが認められ、江戸城開城後も市川・船橋戦争などで新政府軍と戦うも負傷して九死に一生を得ながら戦線を離脱する。徳川家静岡移封後に偽名を名乗り沼津へ移り住んだ。

沼津移住後、旧幕臣の子女への教育のため、沼津兵学校、集成舎(現:沼津市立第一小学校)、沼津中学校(旧制の静岡県立沼津中学校、新制の静岡県立沼津東高等学校と異なる)、駿東高等女学校(現:静岡県立沼津西高等学校)設立者となり、静岡師範学校の校長を務めた。東京に麻布学園を創設し、学校開設から亡くなるまでの間、麻布中学校の校長を務めた。

また、旧幕臣士族授産事業として、製靴業、牧畜業、茶の輸出会社の設立などを行い、愛鷹山払い下げ運動に非常に深く関わった。政治家としては、静岡県会議員、衆議院議員、貴族院勅選議員を務めた。所属政党は自由党、引き続いて憲政党に参加し、立憲政友会の結成にも尽力した。東京YMCAの理事長や、日本メソヂスト教会日曜学校初代局長を務めるなど、キリスト教徒という一面も持つ。
少年時代

天保13年(1842年1月29日、江戸の角筈五十人町にて、幕臣江原源吾の長男として誕生した。幼名は鋳三郎という[3]。江原家の先祖は三河国幡豆郡江原村の郷士であったが、一向一揆に加担し、徳川家康に背いたとされ零落し[4]黒鍬者として付き従った。

素六が生まれた当時、黒鍬者であったため収入は少なく赤貧であり、素六に加え、素六の祖父、父、母、弟2人、妹1人の計7人が、1年を玄米40俵(14)で暮らすという状態であった。町中で住み込みで暮らす女中は給金が年3両だったといわれている[5]

このため、父母は房楊枝爪楊枝を作る内職を行っており、素六はこれを町の商人に売りに行くなどして、手伝っていた[6]。家計が厳しいことに加え、父源吾の学問は侍にとって分不相応という考えにより寺子屋にも通っていなかったが、伯父の学費援助で通えるようになった[7]

嘉永5年(1852年)10歳を迎えた頃、江原家が四谷愛住町へ転居した後、池谷福太郎が主宰する寺子屋へ習字科として移った。ここで、隣席の少年が漢籍の素読をしているのを聞き、「大学」と「論語」を暗唱してしまったというエピソードがある。安政3年(1856年)、昌平黌を受験し、乙科に及第した[8]。昌平黌時代には、浅野従兵衛や深津摂津守に援助された。浅野従兵衛に紹介された斎藤弥九郎練兵館で剣術の稽古をつけ、また、同じく紹介を受けた深津摂津守の子弟に素読を教え報酬を得た。直参旗本である深津摂津守の武家屋敷で働き、従者代わりに随行することで行儀作法や旗本の生態を理解した。素六は昌平黌に通いながら、小野久弥、関根良介、高島三十郎、星野格次郎、松平勤次郎に洋学を学び、特に洋式兵術に関心を持った[9]
幕臣時代
講武所

深津摂津守の勧めで安政6年(1859年)に講武所に入り幕臣となると頭角を顕し、文久元年(1861年)に砲術世話心得、文久2年(1862年)に砲術教授方となった。講武所で学ぶ一方で本格的に洋学を学ぶため、松代藩士蟻川賢之助の塾に寄宿した[10]。この時期、特別警護隊としてハリスの警護や、横浜警備隊として吉田橋の警護に就いた[9]
長州征伐

慶応元年(1865年)5月、徳川家茂を総大将とした長州征伐の際、素六は撤兵中隊長として江戸を発った。京都では桑名藩邸の警備に就いていたが、旗本や家臣、諸般の兵に洋式練兵を教えるため、京都と大坂の間を往来し、7月には広島、備後三次を通り、島根・石見銀山の農民に歩兵操練、役人に砲兵の技術を教えた[9][11]。慶応2年(1882年)7月、第14代将軍徳川家茂が大坂で亡くなり長州征伐が中止になると素六も11月に江戸に戻った。江戸に戻る道中で、読書をしなかった日は無かった。翌月12月には第15代将軍徳川慶喜警護の職務のため歩兵指図役並となり、京都へ向かった。京都滞在中に砲兵指図役頭取並に昇進した[11]
鳥羽・伏見の戦い

慶応3年(1867年)10月14日、徳川慶喜大政奉還を宣言すると、京都・大坂の幕臣は大きく動揺する。素六もその騒動の中で指揮に当たっていたが、江戸に戻るよう命令が下った。兵乱を防ぐため京都残留を願い出て隊を離れた素六は、単身伏見を回って大坂に向かった[9][12]。大坂に向かう途中、道端の林の中にナポレオン3世から幕府へ贈られた大砲2門が置き去りになっていた。捨て置けば幕府の不名誉となると考えた素六は、江戸っ子の人夫たちに淀まで引くことを依頼して大砲を大坂まで運ばせたという[13]

慶応4年(1868年)1月3日の鳥羽・伏見の戦いは、薩摩側の天皇から預かった「錦旗」が効果を発揮し、徳川側は手出しできず総退却し、大阪を引き上げた。この戦いの中、素六は敵からの防衛のため、若手の兵を借りることを肥後守に申し出て、砲兵一大隊と歩兵一中隊を与えられた。素六は、大坂市街を戦場にせず、幕府の兵が無事に江戸へ退き、徳川慶喜が安全に大坂を立ち去れるよう兵を率いて淀川に沿った守口で陣を構えた[9][13]。しかし、徳川慶喜は脱出ルートとして海路を使い和歌山に抜けたため、素六は部下の不満をなだめながら大坂へと向かったが、大坂城内は撤収騒ぎで混乱しており、さらに堺方面に逃れた。その堺でも街中で発砲を受けながら、素六は部下に動揺も与えず紀州へと逃れた[9][13]。紀州では、空腹のため民家に食料を分けてもらい、まずは兵士に食を与え、最後に自分の分の食料を買いに行かせた。米を炊いている最中、素六は疲れから熟睡してしまい、旅費として支給されていた200両を盗まれてしまったが、当惑の素振りを見せないよう、行軍の指揮者として知恵を働かせ、兵を乗せるため千石船一隻を借り受け、和歌山沖より江戸に向かって出帆した。江戸へ向かう途中、幕府の軍艦順動丸に出会い、これに乗り換えて品川へ着いた[9][13]
市川・船橋戦争


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