江原正士
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えばら まさし
江原 正士
プロフィール
本名江原 正士
(えはら まさし)
[1]
愛称エバラン[2]
性別男性
出身地 日本神奈川県[3][4]
生年月日 (1953-05-04) 1953年5月4日(70歳)
血液型O型[5]
職業声優俳優ナレーター[6]
事務所青二プロダクション[7]
配偶者あり
公式サイト江原 正士|株式会社青二プロダクション
公称サイズ(時期不明)[4]
身長 / 体重175 cm / 65 kg

声優活動
活動期間1976年 -
ジャンルアニメゲーム吹き替えナレーション
デビュー作『野生の眼
俳優活動
活動期間1973年 -
ジャンルテレビドラマ映画舞台
声優テンプレート | プロジェクト | カテゴリ

江原 正士(えばら まさし[注 1]1953年5月4日[1][8][9][10] - )は、日本声優俳優ナレーター[6]神奈川県出身[7]青二プロダクション所属[7]
経歴

東京都立千歳丘高等学校卒業[10][11]。学生時代にチャールズ・チャップリンの映画を観て彼に憧れを抱いたことから芸能の道を夢見る。最初は役者ではなく映画監督を志しており[12][13][14]、趣味で8ミリ映画を撮っていた[15]。ある日、監督業を学びたいと銀座にあった東宝の事務所を訪問し、浜松町の東宝芸能アカデミーを紹介される[11][16]。そしてそこが俳優養成所であることを入所後に知るが通い続けた[16]

そんな折、映画監督 山本嘉次郎による講義で、映画『商船テナシチー』のワンシーンを女優志望の学生が棒読みで演じた後、その山本が参考として実演した姿が、年配だったにもかかわらずその場にいた女性たちよりも一番女性らしくみえ[16]、その表現の見事さに驚いたと同時に「表現とは何か」と思い立って芝居を勉強しようと決め、色々な表現に触れるためダンスや上方舞などのレッスンを受けた[12][15][17]。そして仲代達矢の舞台を観劇し、日本人離れした迫力に魅入られ、追いかけるように仲代の舞台を観に行っていた[17]。ある日、舞台『リチャード三世』を観劇した日が学生の観覧日で、学生だらけで騒々しい会場を静まり返らせるその表現方法の凄さに改めて感動し、心が舞台に向いていきミュージカル路線転換前で新劇も上演していた劇団四季のオーディションを受け合格、所属する[16][17]浅利慶太からは江原が、「四季の芝居とは正反対の芝居する」と嬉しそうにいわれたという[16]。そこでセリフの発声法など演技の基礎を磨き[11][18][19][20]、劇団の仕事で『若草物語』のローリー役を演じ声優デビューしたと言われているが、それ以前にも吹替作品で端役をやっていた。[21][17]その間に観劇した舞台での西田敏行の演技に感動し、約3年間在籍した四季を退団して劇団青年座入団を目指す[11][18][19][20]。その空白期間中、浅利慶太から再入団を持ち掛けられるが、当時若いこともあって深く考えず断ってしまった[22]。すでに青年座の入団オーディションが終了していた時期たっため、映画放送部に移籍となった[22]。そのため主に出演していた舞台は青年座が主催する青年座劇場の公演ではなく、地方巡業した緒形拳主演の『王将』や神保共子井川比佐志・西田敏行出演の『セチュアンの善人』など当時青年座のプロデューサーだった金井彰久が企画・製作した作品[11][23]、その他民音労演等の演劇鑑賞団体が企画した作品といった外部の舞台劇だった[18]

その後青年座を退団し、1981年から劇団員が吹き替え声優として活躍することが多い劇団昴[24]に所属し[21][19]、昴の公演や商業演劇などの舞台俳優として活動する傍ら[19][25]、俳優として大河ドラマ2時間ドラマなどに出演したり、映画の吹き替えなど声優としても本格的に活動を始める[19][26]。次第に吹き替えの仕事が増え、収録で朝から晩までスタジオに入ることが多くなるなど[12]、声優の仕事の比重が大きくなったため舞台への出演が減少した[19]。1990年に昴を退団し81プロデュース[4]に所属してからは主に声優として活動し[27][注 2]、2017年1月に退所。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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