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生誕 (1964-12-22) 1964年12月22日(59歳)
日本・東京都墨田区[1][2]
出身校和光大学人文学部芸術学科中退
國學院大學別科神道専修II類修了
武蔵野音楽大学パルナソスエミネンス(特修科)修了
職業作家
オペラ歌手
肩書き日本スピリチュアリズム協会理事長
吉備国際大学客員教授
九州保健福祉大学客員教授
一般社団法人 日本フィトセラピー協会 顧問
配偶者既婚
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江原 啓之(えはら ひろゆき、1964年12月22日 - )は、日本の男性作家、オペラ歌手(バリトン)。元神職。ワタナベエンターテインメント所属。吉備国際大学客員教授、九州保健福祉大学客員教授[3]。一般社団法人日本フィトセラピー協会 顧問。自ら設立した一般財団法人日本スピリチュアリズム協会理事長、世界ヒーリング連盟元会員、二期会会員。日本オペラ協会会員。日本演奏連盟会員。第27期燦々ぬまづ大使。
妻と二人の息子がいる[4]。血液型A型。 この節の出典や参考文献は、一次資料や記事主題の関係者による情報源に頼っています。信頼できる第三者情報源とされる出典の追加が求められています。 1964年(昭和39年)12月22日、東京都墨田区の下町で、薬品会社に勤めるサラリーマンの第2子として誕生[1][2]。7歳上の姉を持つ[4]。 4歳の時、父親を薬害で亡くし、15歳の時、母親を癌で亡くす[1]。中学生時代はギター部に所属していた[5]。技術職に就くことを目指し本郷高等学校デザイン科に進学。放課後はアマチュア合唱団の練習に参加[5]。 1981年、高校2年の時、姉が嫁に行き、一人暮らしを始める[4]。和光大学人文学部芸術学科[6] に入学し、美術を専攻([7],p127)。彫刻[8] や音楽を学ぶ。大学の近くに移住する[4]。「18歳までは守られる」という生前の母の言葉通りに、18歳になった頃から心霊現象に悩まされ19歳で大学を退学する[2]。 警備員のアルバイトをする傍ら、エスカレートする一方の心霊現象を解いてもらう為に、何十人もの名の知れた霊能者を渡り歩くも解決できず、それまで霊能者達に支払った高額な料金で貯金も底をつき、自殺まで考えるほど精神的にも金銭的にも追い詰められる。そして20人目にして出会った日本心霊科学協会の講師・寺坂多枝子 人格や波長を高く保ち善きカルマを積めば、低級霊は寄って来ないとアドバイスを受け、自分の力をコントロールするため修験道(真言密教系[9])の修業を始める[1]。1年間寺で修業した後、高尾山での 2年間の滝行により憑依体質を克服[1][4]。「日本心霊科学協会」の「精神統一協会」や寺坂の主催する「清玲会」に通い、瞑想や本格的な心霊科学
来歴
出典検索?: "江原啓之"
18歳まで
神職の資格を得る
滝行で知り合った男に職業霊能者になる誘いを受ける。心霊相談の部屋を提供されるも、お金を一切もらえず、極貧の生活に追い込まれる。そして人の悩みや迷いに付け込んで高額な料金をせしめ取る霊視アドバイス屋にされていることに気づき、夜逃げ同然に逃げ出す[1]。
「社会的に信頼されるようにきちんとした職業を持つべき」という寺坂の勧めに従い[9]、22歳[8] の時、神職の資格[10] を得るため國學院大學の夜間部に入学[5]。1987年(23歳)、 北沢八幡宮に実習生として勤める[11][12][13]。経済的に苦しかったため、夜間の授業を終えた後、深夜に心霊相談を行うという過酷な生活を送る[4]。國學院大學別科神道専修II類を修了し[6]、神職の資格を得る[4]。
心霊相談で知り合った人たちや昔からの友人たちによって、東京、横浜に計3ヶ所スピリチュアリズムを学ぶサークルが作られ、毎月、講師として研修を行う[4]。後に計3ヶ所合同の研修会(これが後に「江原啓之のスピリチュアリズム講座」となる)を北沢八幡神社の広間で開催する[4]。
この頃、名古屋の医師の紹介で[9]、北海道の浦河町に建てた別荘の心霊現象に悩んでいた小説家、佐藤愛子の相談に乗る([4],p257)。
『シルバーバーチの霊訓』と出会い、これを読んだ江原は、つぎのような感想を述べている。「自分が見出した真理が正しかったことが裏付けられ、これまでの自身の経験の意味を改めて理解でき、感動した」[4]。江原が、この本を読んだのは、寺坂が江原の両親を招霊した時期に近い。 1989年(24歳)3月、北沢八幡宮を去り、近くの東京・下北沢のアパートで、心霊相談とヒーリングによるスピリチュアリズムの普及を目的として「スピリチュアリズム研究所
イギリスでの学び
寺坂多枝子の「霊能者は拝み屋の域を離れ、アカデミックなスピリチュアリズムを学び、その地位を築くべき」とのアドバイスにより、1990年(25歳)2月、霊能者としての活動のヒントを求め、スピリチュアリズムの本場とされるイギリスに渡り学ぶ。ロンドンのミーディアム(霊能者)を育成する団体である「英国スピリチュアリスト協会」(SAGB)を訪ね、ネラ・ジョーンズ(Nella Jones)、テリー・ゴードン、ドリス・コリンズ(Doris Collins)など、霊媒師として知られる人物たちと会い、理論、実践を学ぶ[2]。中でも最も影響を受けたのはドリス・コリンズであり、自身のスピリチュアルカウンセラーとしての活動はドリスを見本にしているという[7]。渡英中、ドリスにイギリスに住みたいと希望を伝えた際は、「私と同じようにパイオニアとして、日本で人々に真理を伝えてゆきなさい」と言われたという[4]。以降1996年まで、足かけ6年、計9回渡英する[4]。
帰国後、個人カウンセリングにイギリスで学んだスピリチュアリズムの手法を取り入れる。 イギリスで学んでいた時に、ある男性ミーディアム(霊媒)の名刺の肩書であった“スピリチュアル・カウンセラー” [14] という言葉を気に入る([4]、p206)。 “霊能者”という言葉には現世利益を与える他力本願的なイメージが強く、暗いイメージがあり、そのような拝み屋的な存在としての心霊相談と同一視されたくないという思いもあり、スピリチュアル・カウンセラーと名乗るようになったという[7]。 江原のカウンセリングスタイルは、一般的な日本の霊能者がするような相手の相談に答えて行くという形ではなく、自身が霊的世界とコンタクトを取り、その人に関わるさまざまな情報およびメッセージを一方的に伝えて行く、イギリスや欧米諸国で行なわれている「シッティング
スピリチュアル・カウンセラーとして
しかし、十数年カウンセリング活動を続ける中で、楽して成功を求めるようなスピリチュアリズムの真理に反した物質的価値観による相談や非常識なクレームをつける人が多く[12]、1年間に千件に及ぶカウンセリングの中でも、やってよかったと思えたのは10パーセントにも満たなかったという[7]。そんな中で、応急処置的なカウンセリングばかりに時間を割くより、霊的な真理という「人生の地図」を普及させることの方がはるかに「人の助け」、「霊界の助け」になると考え、個人カウンセリングを休止し、執筆活動や講演活動に重点を移した[4]。 寺坂を通じて知り合った佐藤愛子の助力でマスメディアに姿を現す[15]。 1992年(27歳)、ファッション雑誌『CanCam』(1992年2月号)の連載で取り上げられたことで、「スピリチュアリズム研究所」に予約が殺到する[5]。
マスメディアへの登場