この項目では、1941年の戦いについて説明しています。1943年の戦いについては「江北殲滅作戦」をご覧ください。
江北作戦
戦争:日中戦争
年月日:1941年(昭和16年)5月6日 - 25日
場所:長江北岸(湖北省北部)
結果:元の状態に復帰
交戦勢力
大日本帝国 中華民国
指導者・指揮官
阿南惟幾李宗仁
戦力
3個師団
1個独立混成旅団17個師(師団に相当)
損害
戦死:115
戦傷:375不詳
日中戦争
主要戦闘・事件の一覧
1937-1939年
北支(盧溝橋 - 北平 - 廊坊 - 広安門 - 平津 - 通州 - チャハル) - 上海 (大山事件 - 上海爆撃 - 四行倉庫) - 太原 - 南京 - 徐州 (台児荘 - 黄河決壊) - 武漢 (万家嶺 - 長沙大火) - 広東 - 南昌 - 襄東 - ?湘
江北作戦(こうほくさくせん)は、日中戦争中の1941年(昭和16年)5月に湖北省で行われた、日本軍と中国軍の戦闘である。予南作戦に続く短切的な作戦として、華北の中原会戦に呼応した第11軍が実戦訓練を兼ねて計画した。 1941年(昭和16年)2月、第11軍は麾下兵団に、夏秋に予定されている作戦(長沙作戦)で最大威力を発揮できるよう教育訓練を指示したが、これに対して第3師団は「訓練の目的を兼ねた作戦」を5月に実行する事を決定し、軍司令部に上申した。第11軍では、5月8日から北支那方面軍が山西省南部で実行を予定している中原会戦に策応するタイミングにも適しているとしてこの申し出を歓迎し、第3師団に戦車連隊を増加配属させることにした(4月21日)。 第3師団は当初、「鄂北作戦」と呼称して準備を進めていたが、4月23日に第11軍は「江北作戦」の呼称で実行することを決定し、作戦命令を下達した。 まず第3師団の一部が信陽北方で陽動した後、師団主力は5月6日応山から北西進し10日環潭鎮で包囲をおこなったが、第22集団軍は慣用している退避戦術に出て棗陽方向に退却した。5月8日、第4師団は安陸北側から、第39師団は荊門付近から、独立混成第18旅団は当陽北側からそれぞれ40?50キロ前進して中国軍を駆逐、5月12日反転を開始して15日ごろ元の態勢に戻った。第3師団は、退却した第22集団軍を捕捉するために13日から追撃を開始し、15日棗陽を占領、17日棗陽南方約30キロ付近で第22集団軍に大打撃を与え、また21日には第55軍を撃破して翌22日に原駐地に帰還した。 中国軍は日本軍の反転とともに逐次追尾してきて作戦開始前と同様の状態に回復した。中国軍17個師と交戦した戦果は大きくなく、また作戦地域の距離が300?400キロも隔てている中原会戦に影響を与えることも無かった。日本軍の損害は戦死115人、戦傷375人だった。 日本軍第11軍 - 軍司令官:阿南惟幾中将 中国軍第5戦区 - 司令長官:李宗仁 日中戦争 1937-1939年
概要
交戦兵力
第3師団 - 師団長:豊嶋房太郎中将 (戦車第7連隊主力、戦車第13連隊の一部、その他砲兵隊などを配属)
第4師団 - 師団長:北野憲造中将
第39師団 - 師団長:村上啓作中将
独立混成第18旅団 - 旅団長:堤不夾貴中将
第3飛行団の一部(直協1隊)
第22集団軍 - 総司令:孫震
第55軍など
参考文献
防衛庁防衛研修所戦史室 『支那事変陸軍作戦(3)昭和十六年十二月まで』 朝雲新聞社〈戦史叢書〉、1975年。 362-364頁。
主要戦闘・事件の一覧
北支(盧溝橋 - 北平 - 廊坊 - 広安門 - 平津 - 通州 - チャハル) - 上海 (大山事件 - 上海爆撃 - 四行倉庫) - 太原 - 南京 - 徐州 (台児荘 - 黄河決壊) - 武漢 (万家嶺 - 長沙大火) - 広東 - 南昌 - 襄東 - ?湘