汐見洋
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しおみ よう
汐見 洋
本名片山 喜三郎(かたやま きさぶろう)
別名義汐見 蓊(しおみ しげる)
生年月日 (1895-07-07)
1895年7月7日
没年月日 (1964-07-01) 1964年7月1日(68歳没)
出生地 日本 東京府東京市(現在の東京都
死没地 日本 東京都杉並区西永福
職業俳優
ジャンル新劇劇映画現代劇時代劇サイレント映画トーキー)、テレビ映画
活動期間1920年 - 1964年
主な作品
『さくら音頭・涙の母』
美徳のよろめき
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汐見 洋(しおみ よう、1895年7月7日 - 1964年7月1日)は、日本の俳優である[1][2][3]。本名は片山 喜三郎(かたやま きさぶろう)[1][2]。旧芸名は汐見 蓊(しおみ しげる)[1][2]日本映画データベースにおいて、汐見扇は誤りである。
来歴・人物

1895年(明治28年)7月7日東京府東京市(現在の東京都)に生まれる[1][2]1917年(大正6年)、慶應義塾大学経済学部を中退、会社勤務の傍ら演劇を研究する[1][2]

1920年(大正9年)、石川治、西條軍之助らと新劇団研究座を組織し、汐見 蓊名義でに同年4月の有楽座での第一回公演『星飛ぶ夜』で初舞台を踏む[1][2]1924年(大正13年)6月小山内薫土方与志らの築地小劇場創立に参加、第一回公演『海戦』以降、築地の舞台に立つ[1][2]1927年(昭和2年)、日本のトーキー映画の先駆をなした皆川式トーキー『黎明』に築地小劇場の座員と共に出演、小山内薫監督の下で主役を演じた[1]

1929年(昭和4年)3月、築地小劇場が分裂し、1930年(昭和5年)6月に青山杉作友田恭助田村秋子らと劇団新東京を結成する[1][2]。『フィガロの結婚』を第一回公演に八住利雄作品『罌粟はなぜ赤い』『街のルンペン』などを上演し、1931年(昭和6年)9月に同劇団は解散。1932年(昭和7年)、青山杉作、東山千栄子らと劇団東京を結成[1][2]。『美しき葡萄畑』で旗上げするも1933年(昭和8年)1月に敢え無く解散。この間、端正な容姿と品格を持った演技でスタアとして活躍した[1]

1934年(昭和9年)1月、P.C.L.映画製作所の準専属となり、芸名も汐見 洋と改名[1][2]1935年(昭和10年)に公開された木村荘十二監督映画『さくら音頭・涙の母』に出演して以降、映画俳優として同年公開の成瀬巳喜男監督映画『噂の娘』に出演する一方、1934年(昭和9年)1月に結成された関西新派に参加する[1]1937年(昭和11年)10月東宝の専属俳優となり戦時中も積極的に出演するようになる[1][2]。戦後の1946年(昭和21年)、渡辺邦男監督映画『麗人』などの作品に出演したのち、1947年(昭和22年)に新東宝へ転じた[1][2]が、東宝争議終結後の1952年(昭和27年)に東宝に復帰する[1][2]1955年(昭和30年)には日活と契約を結び、同年、女優の田中絹代が監督を務めた映画『月は上りぬ』など主に老け役で折り目の正しい演技を見せてその後、東京映画と契約する[1][2]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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