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汎スラヴ主義(はんスラヴしゅぎ、ロシア語: Панславизм パンスラヴィーズム ロシア語発音: [p?ns???v?izm]、ポーランド語: Panslawizm パンスラーヴィズム ポーランド語発音: [pan?sla.v?izm]、チェコ語: Panslavismus パンスラヴィスムス チェコ語発音: [?panslav?zmus])は、スラヴ民族の連帯と統一を目指す思想運動である。 汎スラヴ主義は、19世紀初めのハンガリーの民族運動に触発されて始まった。初期の運動は主にハプスブルク君主国のハンガリー側で盛んであった。ハンガリー民族運動が領内スラヴ人への抑圧に繋がり、これに反発してスラヴ人の民族運動が盛んになったという構図がある。このため、ハプスブルク帝国のスラヴ人はハンガリー人を民族運動の先達としながらハンガリーからの分離を目指すという複雑な構図を見せることとなった。 汎スラヴ主義の先駆けとなったのは、当時のハンガリー北部のスラブ人の多い地域であったスロバキアにおけるパヴェル・ヨゼフ・シャファーリク(1795年-1861年)やヤーン・コラール(1793年-1852年)の運動であった。彼らは「汎スラヴ主義の父」とも呼ばれる。 しかしながらスロバキアで汎スラヴ主義が発展することはなかった。これはスロバキアでの汎スラヴ主義が、文化においても人口規模においても優位に立つ西の隣国、チェコおよびチェコ人への同化に繋がりかねないという懸念があったことが原因である。 チェコとスロバキアが一体であると主張する思想についてはチェコスロバキア主義を参照のこと。 汎スラブ主義の象徴的な歌である「スラブ人よ」も、詞はスロバキア人の手によって書かれたものである(曲は皮肉にも、多文化主義を掲げスラブ民族主義には同調しなかったポーランドが、のちの独立の際に自国の国歌としたナポレオン戦争時代のポーランドの戦争歌『ドンブロフスキのマズルカ』から)。 ハプスブルク帝国内の南スラヴ人における汎スラヴ主義は、1830年代のクロアチアからイリリア運動 イリリア運動という名称は、紀元前のバルカン半島西部、すなわちイリュリア地方に居住したイリュリア人に由来する。当時、南スラヴ人はその後裔だと考えられていた。それに加えて、クロアチア、セルビア、スロベニアなど、多様な南スラヴの統一を目指すうえで、旗印として相応しいと考えられた。 なお、今日ではイリュリア人が南スラヴ人の祖先ではなかったことが、ほぼ確実である。イリリア運動の指導者としては、クロアチアのリュデヴィト・ガイ
起源
スロバキアの汎スラヴ主義
イリリア運動
19世紀半ば以降の汎スラヴ主義
第一回汎スラヴ会議(1848年)詳細は「スラヴ人会議(英語版)」を参照
1848年革命のさなか、6月にプラハで第一回汎スラヴ会議が開催された。この会議は、主としてフランクフルト国民議会への参加を拒否したチェコ人によって構成されており、反オーストリア、反ロシア色の強いものであった。この会議で青・白・赤の三色旗が汎スラヴの色とされたが、影響力を発揮することなく終幕した。なおポーランドは当時ロシア帝国統治下で国民国家を有しておらず、旧ポーランド・リトアニア共和国の多民族主義(多文化主義)を是とする思想もあり、会議には参加しなかった。