永野重雄
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永野 重雄(ながの しげお、1900年7月15日 - 1984年5月4日[1])は、日本実業家新日本製鐵会長・経済同友会代表幹事日本商工会議所会頭などを歴任した、戦後日本を代表する経済人の一人[2][3][4][5]財界四天王の一人といわれ[6][7][8]、戦後の財界のドンともいわれた[9][10]正三位勲一等旭日桐花大綬章広島市名誉市民[11]島根県松江市生まれ、広島県広島市南区出汐育ち。
永野家 永野小佐衛門   (常浄) 弘願寺初代   ┃   (略)   ┃   法城 弘願寺11代(継いでいない)┏━━┻━━━━━━━━━━┳━━┳━━━┳━━━┳━━━━┓             重雄 男(早世) 俊雄 伍堂輝雄 鎮雄 ┃ ┃┃             辰雄━堀川弘栄┣━━━━┳━━━━━━┓ 厳雄          正┣━━┓ ┣━━┓   ┣━━━┳━━┓一郎 耕二 彰  健二 今村雅樹 康之  弘

広島県呉市沖の瀬戸内海に浮かぶ下蒲刈島三之瀬にある浄土真宗本願寺派の弘願寺が実家[12][13]。寺院の開基は室町時代1525年大永5年)源氏との壇の浦の戦いに敗れた平家の武将・永野小佐衛門がこの地に落ちのび名を常浄と改め、元行寺という浄土宗の廃寺跡に弘願寺を建立した[14][15][16]

永野の父・法城は本来11代目を継ぐ立場にあったが、明治初期の激動期に寺を出奔して上京、大學南校東京大学の前身)で法律を学び裁判官となった。法城は島根県浜田市を振り出しに松江市山口県岩国市山口市中国地方裁判所判事生活を送ったのち職を辞し広島市中町(現・中区中町)で弁護士事務所を開業した[12]

兄は、政治家の永野護衆議院議員参議院議員)。弟に、永野俊雄(五洋建設会長)、伍堂輝雄日本航空会長)、永野鎮雄(参議院議員)、永野治石川島播磨重工会長)がいる。護の子・永野厳雄は広島県知事永野健三菱マテリアル社長及び日経連会長になるなど、永野六兄弟、永野一家などと呼ばれ、閨閥の華やかさでは随一[16] といわれた。
経歴
生い立ち

永野は10人兄弟の次男として松江に生まれた[17]。だが実際に育ったのは広島のため[12][18]、終生広島出身と称した[12][13]

10歳年の離れた長兄・護が東京の第一高等学校柔道部のキャプテンであったため、夏休みなどに帰郷すると小学生の永野に柔道の相手をさせた。その結果腕力がつき、永野が表を通りかかると近所の親は子供を隠し回るほどの暴れん坊となった[17]。スポーツが万能で運動部の助っ人によく借り出され、暴れん坊の割に人に好かれたという[13]。小学6年生のとき、父が腫瘍のため46歳で死去。当時、護は東大法学部在学中だったが、財界の巨頭・渋沢栄一から、子息の渋沢正雄の勉強相手という名目で謝礼を受領し、郷里の兄弟の養育費にもあてられた[14][17]。兄弟はいずれも学業に優れ、早世した三男以外の男児6人は5人が東大、1人が東北大に進んだ。

永野は第六高等学校に合格すると柔道に専念[19]福山市出身で共に「財界四天王」と呼ばれることになる桜田武を勧誘して高専柔道界の王座を築く[17]。当時のあだ名は「ウンテル・メンシュ(Unter Mensch)=人間以下」であった[20]。六高から東大法学部に進み、1924年大正13年)に卒業した。
製鉄業界へ

東大卒業後、永野は母と同郷の広島市堺町(現西区)出身の二宮新が支配人を務めていた貿易会社浅野物産に入社するが、気乗りせず10ヶ月で退社した[21]。翌1925年(大正14年)、渋澤正雄の依頼を請け、倒産会社、富士製鋼の支配人兼工場長となり、再建を果たす[22]。これが機縁で以降の生涯を製鉄業に捧げることとなった。

1930年(昭和5年)からの世界恐慌では、富士製鋼も倒産寸前に陥り[23]1931年(昭和6年)には銀行から借金返済の催促を受け、年末に夜逃げするなど苦闘した[23][24][25]1932年(昭和7年)には、銑鉄が売れなくて困っていた満州昭和製鋼所から、大連港に据える荷物用のクレーンの納入を請け負った。機械が売れなくて困っていた石川島飛行機社長・渋澤正雄に頼んで、クレーンを一緒に作って先方に納め、代わりに昭和製鋼所の在庫の銑鉄を富士製鋼がバーターでもらうという契約を結んだ[26]。銑鉄を非常に安く仕入れたが、その後相場が急騰し大きな利益が出て、その金で安田銀行からの借金を一掃して工場の担保も抜くことができた[26]。後年の大合同の際には、担保が無かったため身軽に参加できたという[26]

1933年(昭和8年)昭和鋼管(森コンツェルンの昭和肥料(昭和電工)の合弁会社)の総務部長を兼ねていた関係で、森コンツェルンの創設者である森矗昶から引き抜きを受けたが断った[27]。森から「そのかわり(森の長男)まだ若いので、一生涯、横から面倒をみてやってくれ」といわれ、日本冶金工業の取締役を務めた[27]

1934年(昭和9年)、製鉄大合同で富士製鋼が日本製鐵(日鐵)に統合されて日鐵富士製鋼所となると、永野は所長に就任。翌1935年(昭和10年)八幡製鐵所所長・渡辺義介の勧めにより八幡製鐵所に転出し、日鐵の中枢を歩む[24]。永野は、三鬼隆とともに増産を企図し、日鐵の配炭のすべてを八幡に集中して銑鉄・鋼の傾斜生産を行い、銑鋼一貫の八幡の本格的な生産復興を目指した[24]。これは戦後に日本政府が経済復興推進策として打ち出した傾斜生産方式の先例とされる[24]

戦争拡大に伴う日本経済の戦時統制体制の進展により、1941年(昭和16年)鉄鋼統制会に理事(原料担当)として出向[24]。北海道支部長として終戦を迎える。1945年(昭和20年)8月15日玉音放送銭函の取り引き先で聞いた[28]
戦後

1946年(昭和21年)日鐵に常務取締役で復帰。戦後のGHQによる公職追放で有力な経済人が会社を去ったことで、同年、諸井貫一堀田庄三ら、若い経営者らと共に経済同友会を創立し、代表幹事に就任した[29][30][31][32][33][34]

1947年(昭和22年)、和田博雄長官の要請により片山内閣経済安定本部筆頭副長官(次官)となる[30][35]。ここで傾斜生産方式を確立して産業復興を軌道に乗せる役割を担う[24]武見太郎は「永野さんが経済安定本部の中で、自分がいままで鉄鋼生産で得た知識を全部披露して、その上に今度は新しい鉄鋼生産の科学技術面を学者陣営が考えて、戦後の新しい鉄鋼生産というものが出来ていき、やがて日本が鉄鋼生産で世界一になった。それが日本の工業の大きな力になった」と述べている[36]。この時、同じく次官であった池田勇人大蔵省)、佐藤栄作運輸省)と親交を結び、政界への影響力の素地を作った[14][37]

GHQの命令で天下りが禁止されることとなったことから、製鉄業界に戻るため1年半で官職を辞する[38]。政府役人は民間会社の重役を兼ねることができないため、日鐵には先に辞表を提出していたが、日鐵社長の三鬼隆が「辞表は受理したが抹消登記の届けを忘れた」と称して、日鐵常務に復帰した[39]。公職追放で日鐵経営陣も一掃されており、永野は三鬼とともに代表権を持つ日鐵のナンバー2となった[24][39]

1948年(昭和23年)日本経営者団体連盟(日経連)設立に発起人として参加し、常任理事弘報委員長に就任する[24][29]。同年、日鐵が過度経済力集中排除法の指定会社となり、八幡製鐵富士製鐵に二分割されると、1950年(昭和25年)に発足した富士製鐵社長に就任[24]。当局からは北日本製鐵という社名にするよう勧められたが、若き日に富士製鋼で悪戦苦闘した思い入れから富士製鐵と名付けたという[40]

1948年(昭和23年)12月、それまで戦争賠償の対象とされ、休止していた日鐵の広畑製鉄所が日本側に返還されることになった[41][42]吉田茂の側近であった白洲次郎は、ドル獲得のためイギリスへの売却を主唱した[42][43]


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