この項目では、海軍軍人について説明しています。株式会社マーキュリースタッフィングの社長については「永野修身 (実業家)
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Marshal-Admiral Osami Nagano
渾名男女川(みなのがわ)
生誕1880年6月15日
日本・高知県
死没 (1947-01-05) 1947年1月5日(66歳没)
日本・東京都京橋区
所属組織 大日本帝国海軍
軍歴1900年 - 1945年
最終階級 元帥海軍大将
墓所浄真寺(東京都世田谷区)
筆山墓地(高知県高知市)
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永野 修身(ながの おさみ、1880年(明治13年)6月15日 - 1947年(昭和22年)1月5日)は、日本の海軍軍人、教育者。
海軍兵学校28期、海軍大学校甲種8期。最終階級および栄典は元帥海軍大将従二位勲一等功五級。第24代連合艦隊司令長官。第38代海軍大臣。第16代軍令部総長。海軍の三顕職である連合艦隊司令長官、海軍大臣、軍令部総長を全て経験した唯一の軍人。千葉工業大学の創設発案者[1]。A級戦犯の容疑で東京裁判中に巣鴨プリズンで急性肺炎を患い、米国陸軍病院(US Army Hosp)へ搬送され治療を受けたがその後死亡する。
経歴海軍兵学校時代の写真
1880年(明治13年)6月15日、高知県で士族(上士)永野春吉の四男として生まれる。海南中学に入学、吉田数馬、田岡正樹(後の東亜同文書院教授)らの薫陶を受け卒業。若い頃は侠気に満ち、清水次郎長に弟子入りしようとした。1898年(明治31年)、海軍兵学校第28期に116名中2番の成績で入学する。永野は元々政治家か技術者を志しており、東京帝国大学に入学して法科か工科を修めたいと希望していたという。受験日程の関係から腕試しに海軍兵学校を受験したところ合格、周囲の説得もあり後に軍人を志すようになるが、その後も軍事学以外にも日頃から政治や経済、外交、科学など幅広く専門書籍を読み勉学を続けた。1900年(明治33年)12月13日、105人中次席の成績で卒業し[注釈 1]、少尉候補生となる。1902年(明治35年)1月18日、海軍少尉に任官。1903年(明治36年)9月26日、海軍中尉に進級。明治天皇の閲兵の際には常に天皇のお供をし、度々、天皇が愛用されていたお召し物、双眼鏡などを直々に賜ったりした。 日露戦争では仮装巡洋艦「香港丸」に乗組み後、旅順工作部員名義で重砲隊に転じる。旅順攻囲戦で海軍陸戦重砲隊中隊長として旅順港に逼塞するロシア太平洋艦隊(旅順艦隊)の撃滅に参加。旅順艦隊砲撃で、海軍ではそれほどなじみのなかった観測を用いる間接射撃の実現に貢献し成功させた。 旅順要塞の全体構造から重砲による旅順艦隊砲撃は間接射撃を必要とした。永野は占領した大孤山
日露戦争
1905年(明治38年)1月12日、海軍大尉に進級。第二艦隊第4戦隊副官として5月の日本海海戦に参加。巡洋艦「厳島」砲術長。1908年(明治41年)の練習航海で僚艦の防護巡洋艦「松島」が馬公港で爆沈した際には港内はパニックに陥り混乱を極めたが、永野は冷静に短艇を派遣し、真っ先に救助に着手した。
1909年(明治42年)5月25日、海軍大学校甲種学生拝命。1910年(明治43年)12月1日、海軍少佐に進級。1913年(大正2年)1月10日、アメリカ駐在(ハーバード大学留学)。1914年(大正3年)12月1日、海軍中佐に進級。1915年(大正4年)に帰国し5月より装甲巡洋艦「日進」副長。1918年(大正7年)10月1日、海軍大佐に進級。永野は信念の人物と知られ、海軍省人事局第一課長の際には以下のようなエピソードが残されている。海軍大臣・加藤友三郎に、この懸案は「駄目だ」と一言いわれ、永野は懸案に対し、説明も弁明もすることなく黙ったまま佇立していたという。両者一言もないまま2時間経過後、大臣は「ああ面倒くさい!」というなり押印をしたという。なお、永野は加藤友三郎とも親交があり、後の軍縮会議などでは加藤の考えを理解していた数少ない海軍提督だったという。
1919年(大正8年)11月1日、防護巡洋艦「平戸」艦長。ある時、某砲術長が研究射撃の実施方策を持ってきた。永野は一読して、その方策ではうまくいくまいと思ったが、黙って許可を出した。実施してみると思った通りうまくいかなかった。某砲術長は叱り飛ばされると思って報告に来たが、永野艦長は「君、こうしてやったらどうだ?」と一言いったという。