永田雅一
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この項目では、実業家について記述しています。海洋動物学者の同名の人物については「永田雅一 (海洋ジャーナリスト)」をご覧ください。

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1955年
生誕 (1906-01-21) 1906年1月21日
日本京都府京都市中京区
死没 (1985-10-24) 1985年10月24日(79歳没)
墓地池上本門寺
国籍 日本
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永田 雅一(ながた まさいち、1906年明治39年〉1月21日 - 1985年昭和60年〉10月24日)は、日本実業家映画プロデューサープロ野球オーナー馬主昭和初期から後期(1930年代後半 - 1980年代前半)に活動。大映社長として『羅生門』などを製作。プロ野球大映球団のオーナーとなり、パ・リーグの初代総裁。大言壮語な語り口から「永田ラッパ」の愛称でも知られた。
経歴
出生

京都府京都市三条通油小路下ル(現在の中京区)で生まれた[1]。父・永田芳太郎、母・紀美の長男[1]。生家は染料友禅問屋であった[1]。父は熊本県阿蘇出身、母は東京出身[2]。雅一が3つぐらいのときから家運が傾きはじめた[1]工場が火事になったり、女中と小僧が金を持って駆け落ちしたりで転落に拍車をかけた[1]。やむなく両親は同じ中京区御池通神泉苑町に小さい家を建てて引越し、商売を縮小したのだが、父が友人の借金の保証をして破産の憂目を見ることになった[1]。それで再び転居し、同じ町内で新しく借家住いの境涯になった[1]
上京

小学校卒業と同時に、青雲の志を抱いて上京した[2]。当時東京証券交換所で常務をしていた親戚を頼って「小僧にしてくれ」といったが、小僧になるのにも中学校くらいの学歴が必要だった[2]。そこで補欠試験をうけて大倉商業学校に入った[2]。しかし、学業半ばで父が47歳で脳出血で突如急死した[2]ために「両親健在のうちに永田家を復興させたい」という念願は挫折し[2]、その失意も手伝ってか大倉商業を4年で中退した[3]
帰郷

1923年9月1日、関東大震災が発生した。永田は青年団の一員として整理によく働いた[3]。その月の18日には避難民を送る長崎丸に便乗を許されて神戸に行き、京都に帰ることができた[3]

青年多感の永田は、英雄主義的な気持ちから次第に社会主義にかぶれていった[3]。それゆえに特高に絶えず尾行された[3]にもかかわらず、いろいろなデモや集会に参加した[4]。一時は京都のヤクザ「千本組(皇民党事件の荒寅千本組はその流れを汲む)」に籍をおいた。永田によれば「私の仲間に二条駅で貨物の荷役を請負っていた千本組の元締笹井三左衛門の息子の末三郎というのがいた。この笹井というのは京都でも十番目ぐらいの多額納税者で、一部の子分はともかく、オヤジそのものは決してヤクザではない」という[4]。永田は、警察官に夜となく昼となく尾行される身の上になっていき[4]、これを嘆いた母からは父の位牌を膝の前にして折檻され[4]、家を追放された[4]


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