永田鉄山
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生誕1884年1月14日
日本長野県諏訪郡
死没 (1935-08-12) 1935年8月12日(51歳没)
日本東京府
所属組織 大日本帝国陸軍
軍歴1904年 - 1935年
最終階級 陸軍中将
墓所東京都港区青山霊園附属立山墓地
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永田 鉄山(ながた てつざん、1884年明治17年〉1月14日 - 1935年昭和10年〉8月12日)は、日本陸軍軍人統制派の中心人物。

陸軍中央幼年学校次席卒業、陸軍士官学校首席卒業、陸軍大学校次席卒業を経て参謀本部第2部長、歩兵第1旅団長などを歴任した。

軍政家として本流を歩み「将来の陸軍大臣」「陸軍に永田あり」「永田の前に永田なく、永田の後に永田なし」[1]と評される秀才だった。陸軍刷新(長州閥支配打破など)を進めた。

陸軍省軍務局長(階級は陸軍少将)時に、陸軍内部の統制派と皇道派の抗争に関連して相沢三郎陸軍中佐に執務室で殺害された(相沢事件)。
略歴・人物
前半生

長野県諏訪郡上諏訪町本町(現・諏訪市)出身。郡立高島病院長の永田志解理の四男として生まれた。永田家は代々高島藩の藩医を務めてきた家で、鉄山は裕福な家庭で育った。諏訪出身で岩波書店の創立者である岩波茂雄とは生涯にわたって交友があった。

1890年(明治23年)に高島尋常小学校・諏訪高等小学校(現・諏訪市立高島小学校)入学。「お天気博士」の愛称で知られる中央気象台長の藤原咲平と同級だった。

永田が11歳であった1895年(明治28年)8月26日に父の志解理が死去した。同年10月に東京市牛込区愛日尋常高等小学校に転校。1898年(明治31年)9月に東京陸軍地方幼年学校に入校した。

1903年(明治36年)5月に士官候補生となり兵科歩兵に指定され、歩兵第3連隊附となる。

1904年(明治37年)10月24日に陸軍士官学校(16期)を首席卒業し、同年11月1日に陸軍歩兵少尉に任官。陸士同期の岡村寧次小畑敏四郎共に陸士第十六期三羽烏の一人と評されることになった。

1908年(明治41年)に陸軍大学校(23期)入校。

1910年(明治43年)11月に陸大23期を2位/52名(首席は梅津美治郎〈のちに陸軍大将〉)で卒業し、恩賜の軍刀を授与される[2]。陸大23期の同期には、梅津、蓮沼蕃前田利為、猪狩亮介、入江仁六郎、小川恒三郎、小畑敏四郎らがいる。
バーデン・バーデンの密約「バーデン=バーデンの密約」も参照

その後、1920年大正9年)に駐スイス公使館駐在武官となった。1921年(大正10年)に永田とロシア公使館付武官(ドイツにおいて待機)の小畑敏四郎少佐と欧州出張中の岡村寧次少佐の陸士16期の三者は、同年10月27日にドイツバーデン・バーデンで会合をおこない、翌日にはここに東條英機も合流した。会合においては、陸軍における長州閥支配(山縣有朋など)の打破、人事刷新、軍制改革、総動員体制の構築を目指すことが合意された。極東国際軍事裁判では検察側が軍部独裁に繋がる端緒であるとして取り上げている。

岡村は、「大正十年十月二十七日、ドイツのバーデンバーデンにおいて、永田鉄山、小畑敏四郎と私の三人が、陸軍革新の血盟を結んだという一件は正に事実である。まだ血の気の多かった私共は、欧州の軍事現状を視察し、母国を顧みて、陸軍が国民と離れているのを嘆き、陸軍を「国民と共に」の方向に転進させなければならないと痛感したのであった。」と述べている。当時の陸軍は山梨半造陸相、上原勇作参謀総長以下薩長閥が支配していた。永田(信濃)、岡村(幕臣)、小畑(土佐)は何れも陸士、陸大の優等生であるが藩閥に属しておらず、従来の薩長閥中心の人事では出世は望めなかった。このような現状を打破すること、さらに第一次世界大戦の欧州における総力戦体制の構築を日本においても行うことを目的としていた。これに賛同する中堅将校の勉強会として一夕会が結成された。
総力戦体制構築の推進

かねてからの「国家総動員に関する意見」などが認められて1926年(大正15年)に国家総動員機関設置準備委員会幹事となり、内閣の資源局陸軍省の動員課と統制課の設置に導き、初代動員課長となる。

1928年(昭和3年)には動員課長を辞任し、後任は東条英機となった。

麻布の歩兵第3連隊長を務めた後、1930年(昭和5年)に南次郎陸軍大臣の下で陸軍省軍事課長となる。昭和4年(1929年)水戸付近における陸軍演習で昭和天皇に軍状奏上する歩兵第三連隊長の永田鉄山大佐

1932年(昭和7年)に陸軍少将に昇進。

1933年(昭和8年)6月、陸軍全幕僚会議が開催され、会議の大勢は「攻勢はとらぬが、軍を挙げて対ソ準備にあたる」というにあったが、参謀本部第二部長の永田一人が反対し、「ソ連に当たるには支那と協同しなくてはならぬ。それには一度支那を叩いて日本のいうことを何でもきくようにしなければならない。また対ソ準備は戦争はしない建前のもとに兵を訓練しろ」と言った。これに対し荒木貞夫陸軍大臣は「支那を叩くといってもこれは決して武力で片づくものではない。しかも支那と戦争すれば英米は黙っていないし必ず世界を敵とする大変な戦争になる」と反駁した[3]

対支戦争を考えていた永田は、対ソ戦準備論の小畑敏四郎と激しく対立し、これが皇道派と統制派の争いであった[3]

1934年(昭和9年)に陸軍省軍務局長となった。

同年8月、国府津池田純久、田中清、その他数名の腹心を集めて会議を開き、永田が従来指導していた経済国策研究会を通じ、昭和神聖会に働きかけ、上奏請願に導き、国家改造に伴って戒厳令を布き、皇族内閣を組織するという計画を練った[4]

エーリヒ・ルーデンドルフの政治支配と総力戦計画に心酔し、同年10月、陸軍の主張を政治・経済の分野に浸透させ、完全な国防国家の建設を提唱する『国防の本義と其強化の提唱』という陸軍パンフレットを出版した。

社会民衆党亀井貫一郎は、「永田の在世中、議会、政党、軍、政府の間で、合法あるいは非合法による近衛文麿擁立運動についての覚書が作成され、軍内の味方は反対クーデターを考えていた。だから右翼は右翼でクーデターを考えてもよい。どっちのクーデターが来ても近衛を押し出そうと、ここまで考えていたということが永田が殺された原因のひとつ」と語った[5]

すなわち永田、東条英機富永恭次武藤章下山琢磨ら陸大閥(一夕会)の一部が、亀井、麻生久らを通じて近衛を担いで革新内閣を実現し、革新官僚と連絡をとって革新政策を実現しようとし、反対クーデターも手段として計画され、統制派の反対クーデターは『政治的非常事変勃発ニ処スル対策要綱』という具体案にまでなっていた。


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