永田秀次郎
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日本政治家永田秀次郎永田 青嵐

生年月日1876年7月23日
出生地兵庫県三原郡長田村(町村制後:倭文村、現:南あわじ市倭文長田)
没年月日1943年9月17日
出身校旧制第三高等学校
前職内務官僚
第9代 拓務大臣
内閣廣田内閣
在任期間1936年3月9日 - 1937年2月2日
第18代 鉄道大臣
内閣阿部内閣
在任期間1939年11月29日 - 1940年1月14日
貴族院議員
選挙区勅選
在任期間1918年9月21日 - 1943年9月17日
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永田 秀次郎(ながた ひでじろう、1876年明治9年)7月23日 - 1943年昭和18年)9月17日)は、明治から昭和にかけて活躍した日本官僚政治家俳人随筆家。第18代官選三重県知事、第8代・第14代東京市長、第4代拓殖大学学長、貴族院勅選議員廣田内閣拓務大臣阿部内閣鉄道大臣を歴任。俳名筆名は永田 青嵐(ながた せいらん)で、多くの著書や句集を残している[1]

長男は自由民主党衆議院議員永田亮一[1]
来歴

兵庫県三原郡長田村(町村制後:倭文村、現:南あわじ市倭文長田)に永田実太郎の次男として出生。弟に京都市土木局長、横浜市電気局長を務めた永田兵三郎がいる。

姫路中学校第三高等学校[1](現在の京都大学の前身の一つ)を卒業。

内務省官僚を務めた後[注釈 1]、第8・14代東京市長貴族院議員を歴任。関東大震災では市長として復興に尽力[1][2][3][4]赤尾敏の主宰する国家主義団体「建国会」の顧問の一人となり、同会が提唱した建国祭の準備委員長、拓殖大学第4代学長を務めた[5]

1932年のロサンゼルスオリンピックで女子平泳ぎ200mで銀メダルを獲得した前畑秀子に「なぜ金メダルを取れなかった」と言った。前畑は水泳を引退するつもりだったが、永田の言葉により現役続行を決意。4年後のベルリンオリンピックで金メダルを取ることになる。当時、永田は東京市長としてベルリンの次の1940年(昭和15年)のオリンピックを東京に誘致しようと熱心だった[6]。そのためには女子の金メダリストがいれば有利だと考えていたという。

戦中は陸軍の軍政顧問としてフィリピンに滞在したが、マラリアに罹患して帰国している[1]

満67歳で死去。辞世は「震災忌我に古りゆく月日かな」[7][8]。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}現在[いつ?]、永田の生涯を描くドキュメンタリー映画の制作が進んでいる。墓所は高野山奥の院。
人物

大変な釣り好きとしても知られる[12]。また、日本サッカー協会(当時は大日本蹴球協会)創立時の賛助者として名を連ねている[注釈 2]

三高時代から高浜虚子と親交があり、詩歌を嗜んだ[1]

後藤新平東京市長の下で(第一)助役を務めた際には、後藤から同じ助役の池田宏前田多門と合わせ「畳」と称され厚く信頼された[注釈 3]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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