この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
出典検索?: "永田洋子"
この記事には独自研究が含まれているおそれがあります。問題箇所を検証し出典を追加して、記事の改善にご協力ください。議論はノートを参照してください。(2021年6月)
永田 洋子
生年 (1945-02-08) 1945年2月8日
生地 東京都本郷区元町
没年 (2011-02-05) 2011年2月5日(65歳没)
没地 東京都葛飾区小菅の東京拘置所
思想毛沢東思想
活動印旛沼事件、山岳ベース事件ほか
所属(社学同ML派→)
(「警鐘」グループ→)
(日共左派神奈川県委→)
(日共革左神奈川県委→)
(連合赤軍→)
(日共革左神奈川県委→)
(赤軍派プロ革派→)
(日本社研→)
無所属
投獄東京拘置所
裁判死刑(上告棄却)
テンプレートを表示
永田 洋子(ながた ひろこ、1945年〈昭和20年〉2月8日 - 2011年〈平成23年〉2月5日)は、日本のテロリスト、新左翼活動家。連合赤軍中央委員会副委員長を務めた。複数のリンチ・殺人で死刑が確定していたが、執行前に脳腫瘍のため東京拘置所で獄死した。 東京都本郷区元町(現・文京区本郷)出身。本籍地は神奈川県横浜市、元住居は川崎市[要出典]。生まれた2か月後に横浜市港北区綱島に疎開し、小学4年までは父親が勤務する電機会社の寮に住んでいた。調布中学校・高等学校(現・田園調布学園中等部・高等部)を経て1963年に共立薬科大学薬学部に入学、在学中に共産主義者同盟マルクス・レーニン主義派の学生組織(社学同ML派)の活動に参加するようになり、1964年5月に社学同ML派に加盟する。 1967年の卒業後は、慶應義塾大学病院の研究生となり、同病院の薬局で無給の医局員を務めた後、東京都品川区の三水会病院や済生会病院に勤務。この間、1967年5?6月頃、かつて社学同ML派に参加していた縁で、社学同ML派元幹部河北三男と川島豪による分派「警鐘」にオルグされ参加、女性解放問題やボーナス団体交渉などの労働運動にかかわり、一定の成果を挙げるが、その後組織からの指示と本人の希望で、薬剤師の仕事を辞め、活動に専従する。 その後、三里塚闘争で活動し、「警鐘」と日本共産党を除名された神奈川県の親中国派が合同した日本共産党(左派)神奈川県委員会
経歴
1969年末の川島豪議長らの逮捕以後は、獄外指導部のメンバーの一人となる。1970年9月には指導部の投票により最高指導者となる。当時、永田は最高指導者にふさわしい人物とは見なされていなかったが、機関紙が書ける、重役についていないので余裕がある、(他のメンバーが)自分はやりたくない、といった理由で最高指導者に選出された。指導部は引き続き集団指導体制であった。
永田はその後、指導部の最高責任者として上赤塚交番襲撃事件や真岡銃砲店襲撃事件に関与。印旛沼事件では元同志2人の殺害を指示したが、その際薬学の知識を生かして、睡眠薬を手配・調合した。永田は印旛沼事件に際して「中核派ですら内ゲバで人を殺しているんだから」と言い、これを合理化したことがあったという[1]。
1971年より、共産主義者同盟赤軍派との連携を指導し、7月には両派の合同による「連合赤軍」(当初は「統一赤軍」)を名目上結成。12月には革命左派獄外指導者として、川島豪(獄中)との絶縁を宣言、赤軍派と「新党」を結成する。「新党」では副委員長に就任し、委員長の森恒夫に次ぐナンバー2となる。
1972年2月17日、森と共に一度下山した後、活動資金を持ってキャンプに戻ろうとしたところ、妙義湖から1kmほどの山中で山狩り中の警官隊に発見された。森が、匕首を使って激しく抵抗をしたが、揃って逮捕された。森の所持金は約343万円、永田の所持金は約46万円であった[2]。
逮捕後、連合赤軍がなぜ同志12名の殺害という最悪の失敗に終わったのかを考え、連合赤軍を総括するため、川島豪(獄中)率いる革命左派に復帰する。しかし、川島による連合赤軍の「反米愛国路線の放棄」という総括に対しては、反米愛国路線に内実など無かったとして反発。連合赤軍事件のより深い考察を主張していた赤軍派議長の塩見孝也(獄中)寄りの立場を取るが、この塩見との接触を理由に革命左派から「永久除名」される。
その後は、塩見と連合赤軍総括を共にし、1974年の塩見による赤軍派プロ革派の結成に、赤軍派出身の植垣康博や坂東國男らと共に参加する。1980年には、連合赤軍事件を森・永田ら連合赤軍指導部の資質の問題と主張するようになった塩見と決別し、以降植垣と共に連合赤軍総括に取り組む。1982年発表の自著『十六の墓標』の序文では、川島豪と塩見孝也について、「(川島も塩見も)どちらも既に行っていた自分たちの総括を受け入れるように私をオルグするだけで、連合赤軍問題の事実報告を要求しようとはしなかった。」と書いている。
1983年の判決(死刑)では、山岳ベース事件は永田が主導したものとされ、その原因を永田の「不信感、猜疑心、嫉妬心、敵愾心」「女性特有の執拗さ、底意地の悪さ、冷酷な加虐趣味」だとした。永田は事実誤認があるとしてただちに控訴を決定、永田と歩調を合わせていた植垣、支援者の説得で控訴を決意した坂口と共に控訴する。