永源遙
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永源 遙
プロフィール
リングネーム永源 遙
永源 勝
グレート・トーゴー
本名永源 遙
ニックネーム法界坊
身長178cm
体重110kg(全盛時)
誕生日 (1946-01-11)
1946年1月11日
死亡日 (2016-11-28) 2016年11月28日(70歳没)
出身地石川県鹿島郡鹿西町
所属プロレスリング・ノア
スポーツ歴大相撲
トレーナー豊登
坂口征二
デビュー1966年10月12日
引退2006年3月26日
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永源 遙(えいげん はるか、1946年1月11日 - 2016年11月28日)は、日本の元プロレスラー大相撲力士立浪部屋所属)。石川県鹿島郡鹿西町(現在の中能登町)出身。プロレスラー時代は多くの団体を渡り歩き、その後はプロレスリング・ノア所属。

百田光雄とのシングルマッチは「宿命の対決」とも言われ、100回を超える回数を戦っている。現役後年はコミカルなツバ飛ばしで名を馳せた。
来歴

大相撲の立浪部屋に入門し、永源の四股名で1961年7月場所に15歳で初土俵を踏んだ。1963年9月場所には序二段で優勝したが、その後伸び悩み1965年5月場所限りで廃業した。最高位は幕下71枚目。大相撲廃業後、木村政雄(ラッシャー木村)に誘われ、1966年5月に東京プロレスに入団してプロレスラーに転身[1]。同年10月、永源勝(えいげん まさる)をリングネームに木村戦でデビュー[1]

東京プロレスの崩壊後、1967年5月より日本プロレスに移籍して、本名の永源遙(えいげん はるか)として活動[2]。前座戦線でキャリアを積み、高千穂明久との試合は当時の若手の黄金カードとされた[3]ワールドリーグ戦への出場機会はなかったが、1972年9月開幕の『第3回NWAタッグ・リーグ戦』にはミツ・ヒライと組んで出場。ワルドー・フォン・エリック&フリッツ・フォン・ゲーリング、ダニー・ホッジ&ネルソン・ロイヤルラリー・ハミルトン&ジョー・ハミルトンなどの外国人チームと対戦した[4]

日本プロレス崩壊直前の1973年アメリカへの武者修行に出立。グレート・トーゴー(Great Togo)のリングネームでカンザスNWAセントラル・ステーツ地区を主戦場に、日本人ヒールとしてトーキョー・ジョーこと安達勝治とのタッグチームで活動[5]。同年3月、ボブ・ガイゲル&ルーファス・R・ジョーンズを破り、セントラル・ステーツ版の北米タッグ王座を獲得[6]。同王座は後に世界タッグ王座として認定され、8月にロジャー・カービー&ロード・アル・ヘイズに奪取されるまで保持した[7]

しかし、同年に修行先で日本プロレスの崩壊を迎える。10月に帰国後、新日本プロレスへ移籍[8]。以降、前座・中堅の要となって長年に渡り活躍した。大会場で組まれていた荒川真とのシングルマッチは後の百田との抗争の源流で、両者の対戦はファンだけでなく新日本プロレスの社長(当時)だったアントニオ猪木自身も楽しみな試合だったと後に語っている。1980年6月にはストロング小林と組んで国際プロレスに出場、マイティ井上&寺西勇を下し、前王者アニマル浜口の返上で空位となっていたIWA世界タッグ王座を奪取した[9]

1984年長州力率いる維新軍団と共に新日本プロレスを離脱し、ジャパンプロレスの設立に参加。翌1985年1月より、提携先の全日本プロレスに活動の場を移す[10]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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