永淵洋三
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永淵 洋三基本情報
国籍
日本
出身地佐賀県佐賀市
生年月日 (1942-05-04) 1942年5月4日(82歳)
身長
体重168 cm
65 kg
選手情報
投球・打席左投左打
ポジション外野手投手
プロ入り1967年 ドラフト2位
初出場1968年4月6日
最終出場1979年6月18日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)


佐賀県立佐賀高等学校

東芝

近鉄バファローズ(1968 - 1975)

日本ハムファイターズ(1976 - 1979)

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永淵 洋三(ながぶち ようぞう、1942年5月4日 - )は、佐賀県佐賀市出身の元プロ野球選手外野手投手)。

現役時代は酒豪として知られ、水島新司の漫画『あぶさん』の主人公・景浦安武のモデルとなった[1][2]
経歴

佐賀県に生れ、佐賀市立城南中学校から、県内有数の進学校である佐賀県立佐賀高等学校(現・佐賀県立佐賀西高等学校)に進む。1958年、1年生の時に、背番号13の控え選手ながら夏の甲子園に出場。1回戦で篠田勇のいた水戸商に9回逆転サヨナラ負け[3]。その後はエースとして活躍し、1960年に春の九州大会決勝で鹿児島商を破り優勝するが、甲子園には届かなかった。

その後、東芝に入社し、小柄ながら実戦的な投手兼外野手として活躍する。1964年都市対抗では一番打者、右翼手として起用され、1回戦で愛知マツダから4安打を放つ[4]1966年都市対抗は1回戦で全積水クラブから代打本塁打を放ち、打撃面で注目される。準々決勝ではこの大会に優勝した熊谷組を相手に先発。9回途中まで好投するが後続が打ち込まれ、結局は9回逆転サヨナラ負けを喫する[4]。この時のチームメートに二宮忠士がいる。1967年都市対抗にも日本コロムビアの補強選手として出場。五番打者として活躍し、準々決勝では先発を任せられるが電電東京に敗退[4]

プロ入りの意志が強く、1965年西鉄ライオンズの入団テストを受けるが落ちる。2年後の1967年、高校時代の先輩であり、東芝の元監督でもある伊丹安広早稲田大学の後輩で近鉄バファローズ球団社長の芥田武夫に永淵を紹介[1]。入団テストに合格し近鉄入団が決まった。ドラフト会議では伊丹-芥田ラインに敬意を払ったため形式的に2位で指名されたが、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}契約金は300万円[要出典]と3位の小川亨の1000万円より安価な額となった[1]。しかし、東芝当時の月給が3万円に対し飲み屋に30万円(いまの貨幣価値で言うと数百万ぐらい)のツケがあり、返済のアテもなく契約金で返済するしかないと考えていた永淵はこの額を了承し、近鉄と契約を結んだ[1]

投手として選手登録されたが1968年の開幕戦である4月6日西鉄戦で代打としてデビュー。稲尾和久相手に三振であった。投手としては翌日の7日の対西鉄戦7回裏に初登板。初対戦となった高木喬など3者凡退に抑える。16日の対東映戦で代打出場。石川緑の投げた初球の内角のストレートを叩き初本塁打を記録[1]。この年、監督の三原脩は永淵に投手、外野手、代打の3役を与えた。試合途中で代打に出て、次の回にマウンドに登り、何人か投げて、外野の守備に回ったり、外野からワンポイントリリーフでマウンドに行き、終わると又外野に戻るというような起用を行った。打者としては66試合に先発出場、規定打席には届かなかったが、打率.274、5本塁打、30打点を記録し新人王候補にもなる。しかし投手としては実力不足を露呈したため6月以降は登板がなかった[1]

翌年の1969年からは外野手に専念。同年のオールスターゲーム第3戦では、堀内恒夫よりソロホームランを放ち、さらに金田正一高橋一三からも安打を記録する[5]右翼手、三番打者ととして127試合に出場し、打率.333を記録[1]首位打者張本勲と分け合った。張本のいる東映フライヤーズが10月18日で全日程を終了し、この時点で張本の打率は.333であった一方、永淵は打率が.334と張本を上回っており、残り2試合を欠場すれば単独で首位打者を獲得出来る状況ではあった。しかし、チームが阪急ブレーブスと激しい優勝争いを繰り広げており、残り2試合の直接対決を連勝すれば逆転優勝するチャンスであったため欠場するわけにはいかず、最初の試合はスタメンで出場した。しかし、この試合で近鉄は阪急に敗れ、阪急のリーグ3連覇が決まり、近鉄は優勝を逃した。永淵自身もこの試合は4打数1安打で打率.333となり、この時点で2位だった張本と並んだ。そして最終戦は欠場し、張本と首位打者を分け合った。この時酒好きであったことから当時の新聞などには「酒(主)力打者」と書かれた[1]

酒の強さは並外れており、元は先述の西鉄入団テスト失敗の後に自棄酒を飲み始めたのがきっかけで、アマチュア時代には月給3万円のところ飲み屋のツケが30万円にまで達し、ドラフトの契約金400万円[要出典]を手にしてようやく払い終えたほどだった[5]。プロ入り後も毎日試合後に飲みに出かけては、二日酔いで試合に出場することも多く、酒量も20代の頃には一晩に一升をあけるほどであった[2]。先述の1969年のオールスターゲーム第3戦も、前日より徹夜で飲み明かして寝ずに球場入り、しかし練習時間の前に到着したためさらにまた飲み続け、酩酊状態で打ったという[5]。試合中にグラウンドに吐きながら守っていて線審の田川豊に注意されたというエピソードもある[6]。この話には続きがあり、その晩も永淵は飲みに行ったが、トイレで吐いていた中年男を介抱してあげたところその男は田川であった(田川も酒豪として有名)[6]。また打席に入ったときに相手チームの捕手から酒のにおいを指摘されることもあった[2]

その後も右翼手、三番打者として活躍、1971年1972年に打率.300を記録した。


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