永正(えいしょう)は、日本の元号の一つ。文亀の後、大永の前。1504年から1521年までの期間を指す。この時代の天皇は後柏原天皇。室町幕府将軍は足利義澄、足利義稙。 『周易緯
改元
文亀4年2月30日(ユリウス暦1504年3月16日) 甲子革令に当たるため改元
永正18年8月23日(ユリウス暦1521年9月23日) 大永に改元
出典
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元年(1504年)
9月27日(11月3日) - 立河原の戦い。扇谷上杉朝良、山内上杉顕定に勝利。
2年(1505年)
菅沼定則により、三河の設楽郡に野田城が築かれる。
牧野古白により、三河渥美郡の北端に今橋城が築かれる。これを機に、牧野氏と戸田氏の抗争が激化。今橋城は係争の地となる。
3年(1506年)
古河公方足利政氏と息子の高基が家督を巡って対立し、佐野氏、白河結城氏、小山成長、佐竹義舜、岩城由隆などが政氏を支持し、宇都宮成綱、結城政朝、小田政治などが高基を支持し、関東各地で戦闘が続発した。(永正の乱)
北条早雲、相模にて検地を実施。
11月 - 今橋城の陥落。城主の牧野古白入道は敗死。
4年(1507年)
6月23日(8月1日) - 永正の錯乱。管領 細川政元、自邸内にて殺害される。
これを機に、政元の養子(澄之・澄元・高国)による家督争いに加え、大内義興を味方につけた足利義尹の将軍復職活動が盛んになる。
8月1日(9月7日) - 細川澄元、養父の仇討ちという形で、三好之長と連合して同じ養子の細川澄之を敗死させ細川京兆家の家督を奪う。
8月7日(9月13日) - 越後守護代長尾為景、上杉定実を擁立して守護上杉房能を急襲。関東管領上杉顕定(房能実兄)を頼り関東への逃亡を図った房能を天水越で自害に追い込む(永正の乱)。
大内義興、義尹の仲介により少弐資元と和睦。
5年(1508年)
3月17日(4月17日) - 細川高国、澄元に対抗すべく足利義尹・大内義興の連合との合流を目論み、京都を出奔。翌月、足利義澄将軍・澄元派は大内上洛軍との対峙を危ぶみ、近江甲賀郡へ退避。
7月1日(7月28日)- 京都帰還を果たした足利義尹、将軍職に再任さる。並びに、高国は管領に、大内義興は管領代に任じられる。のちに義尹は義稙に改名、高国も澄元から剥奪した細川京兆家の家督継承を認められた。
三河の設楽郡に長篠城が築かれる。
6年(1509年)
宇都宮成綱が片角原の戦いで蘆名氏に勝利し、塩原まで進出する。
6月17日(7月4日) - 如意ヶ嶽の戦い。高国・大内義興の連合軍、澄元軍を撃退。
7年(1510年)
8月8日(9月11日) - 摂津・河内で大地震。四天王寺の石鳥居、藤井寺が大破。
8月27日(9月30日) - 遠江で津波。浜名湖が海とつながり今切を生じた記録あり。
8年(1511年)
8月14日(9月6日) - 足利義澄、将軍復職も叶わぬまま病死。
8月24日(9月16日) - 船岡山の戦い。澄元派の一員である細川政賢の京都進攻を恐れて丹波に逃れた将軍 足利義稙が、大内義興らの援助により山城の船岡山に布陣した政賢を破って再入京。澄元は阿波へ退散する。
9年(1512年)
日本初の梅毒罹患者が出現。
古河公方家の内紛で婿の高基を支持する宇都宮成綱と政氏を支持する重臣・芳賀高勝が対立し、成綱は高勝の謀略によって隠居させられた後、分裂した家中を統制するために、高勝を謀殺し、芳賀氏側の重臣の城館を一斉に攻撃する。宇都宮錯乱とよばれる大きな内紛へと発展し、成綱が2年かけて内紛を鎮圧。家臣団を再構成し、家中を掌握する。
8月4日(9月3日) - 阿波に大津波。宍喰浦の民家多く流される。
10月 - 北条早雲により、相模の鎌倉郡に玉縄城が築かれる。
12月 - 因幡守護山名豊重が、弟の山名豊頼によって布勢天神山城にて殺害される。(申ノ歳崩れ)
10年(1513年)
5月21日(6月30日) - 甲斐国で河内領主・穴山信懸が実子・清五郎により暗殺される。
11年(1514年)
8月23日 - 宇都宮錯乱で疲弊した下野宇都宮氏を狙い佐竹義舜・岩城由隆・上下那須氏の2万の連合軍が侵攻してくる高林の戦いで、宇都宮忠綱が宇都宮成綱・結城政朝らの援軍とともに撃退する。この勝利が政氏方に大きな影響を与え、下野宇都宮氏の躍進にも影響する。
13年(1516年)
宇都宮成綱が佐竹義舜率いる佐竹氏の大軍を小川縄釣の合戦