西暦換算に関する注意
1582年以前に発生した日本の地震の西暦換算については、ユリウス暦であるか、グレゴリオ暦であるかを明記してください。Wikipediaの表記ガイドでは原則としてユリウス暦で表記することになっていますが、『理科年表』など多くの文献ではグレゴリオ暦表記となっており、混乱を避けるために注意が必要です。
詳細は日本の歴史地震の西暦換算を参照してください。
永正地震
本震
発生日永正7年8月8日・ユリウス暦1510年9月11日
規模 M6.7(諸説あり)
最大震度 震度6:摂津・河内付近
津波あり(疑わしい)
被害
被害地域畿内
プロジェクト:地球科学
プロジェクト:災害
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永正地震(えいしょうじしん)は、室町時代後期(戦国時代初期)の永正年間に発生した地震・津波。
永正年間には主な被害地震津波として以下の記録が現存するが、戦乱の時代であったため詳細な記録に乏しく、何れも不明な部分が多い。
名称ユリウス暦換算グレゴリオ暦換算被害地域
永正7年8月8日の地震1510年9月11日1510年9月21日摂津・河内附近の地震[1]
永正7年8月27日の津波1510年9月30日1510年10月10日遠江の津波
永正9年8月4日の津波1512年9月3日1512年9月13日阿波の津波
永正17年3月7日の地震1520年3月25日1520年4月4日京都・紀伊の地震[2]
何れの地震も津波の記録が存在しているが疑わしく、暴風雨による高潮との見方も有る[3][4]。これらの内、永正7年の遠江、および永正9年の阿波の津波記録には地震記事が見出されず、永正の大津波(えいしょうのおおつなみ)とも呼ばれる。 永正7年8月8日寅刻(ユリウス暦1510年9月11日4時頃、グレゴリオ暦9月21日)に大地震が発生し、京都では声響と共に強い地震を感じ(『実隆公記』)、摂津では四天王寺の石鳥居、金堂本尊が大破、河内では常光寺、剛琳寺、藤井寺が潰れた。天王寺や藤井寺附近の震度は6程度と推定されている[5]。 『写本大般若経奧書文節略』 干時永正七年庚午八月 大和・山城、大風大地震仕、天王寺石鳥居ユリ崩レ、同藤井寺ノ本堂忽ニクツレヌ、前代未聞ノ世間ノサタナリ、即時ニ旦那ル鳥居、同藤井寺モ造立候、 『暦仁以来年代記』には津波を示唆する記録が見られるが、『暦仁以来年代記抄節』では「波荒」が「波花」となっており、高潮は地震によるものとは限らないとされる[4]。 永正七年八月七日夜大地震、天王寺石鳥居崩、浦々高鹽充滿、波荒シテ人家損失云々 大森房吉(1913)は、本地震は奈良附近から大阪を経て四国の東北端に延長される一帯に発生した地震で、1361年正平地震や1854年伊賀上野地震と同系列に属するものと考えた[6]。本地震を生駒断層帯に属す誉田断層の活動とする見解もある他、これを否定する意見、或は上町断層の活動とする説がある[3]。 河角廣(1951)は斑鳩付近(北緯34.6°、東経135.7°)に震央を仮定し規模MK = 3.6 を与え[7]、マグニチュードは M = 6.7に換算されている。宇佐美龍夫(2003)は(北緯34.6°、東経135.6°)に震央を仮定し M 6.5-7.0としている[4]。 淡水湖であった浜名湖が津波・地盤沈下によって海に通じたのは『東栄鑑』等の記録から明応地震の時であるとされる一方で、『重編応仁記』には、永正7年8月27日(ユリウス暦1510年9月30日、グレゴリオ暦10月10日)から翌日に掛けての津波によって浜名湖が海に通じて今切を生じたと記録されている[8][9]。しかし、この記事は浜名湖の今切の由来に関するものしか見出せず、地震が原因でないともされる[4]。 永正七年廿七日、同廿八日ニ遠州ノ海辺夥ク波打来テ、数千ノ在家ヲ流シ捨テ、死亡スル者数ヲ不知、陸地三十余町、悉海ト成テ、旅人俄ニ船ヲ設テ往行ス、其レヨリ此所ヲ今ギレノ渡リト名付ケリ、誠ニ乱世末代ト云ナカラ、類稀ナル災変也、
永正7年8月8日の地震
永正7年8月27日の津波
永正9年8月4日の津波
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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