永正の錯乱
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「永正の変」はこの項目へ転送されています。

永正年間の白河結城氏の内紛については「白河結城氏」をご覧ください。

同年代の関東の騒乱については「永正の乱」をご覧ください。

永正の錯乱(えいしょうのさくらん)は、永正4年(1507年)に室町幕府管領細川政元暗殺されたことを発端とする、管領細川氏細川京兆家)の家督継承をめぐる内訌である。背景には京兆家を支えてきた内衆などの畿内の勢力と政元の養子の一人細川澄元を擁する阿波三好氏などとの対立があり、これに将軍足利義澄に対抗して復権を目指す前将軍足利義稙の動きも絡んでいた。複雑な情勢の推移を経て、政元の暗殺から1年後には畿内勢が支持する別の養子細川高国が家督に就き足利義稙が将軍に返り咲いたが、これに逐われた足利義澄・細川澄元・三好氏の勢力も巻き返しを図り、畿内において長期にわたって抗争が繰り返された(両細川の乱)。
経緯.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキソースに細川大心院記の原文(細川氏内紛の記録)があります。
細川政元の3人の養子

明応2年(1493年)、第27代室町幕府管領職に就いていた細川政元は第10代将軍足利義材(後に義尹、さらに義稙と改名)を廃立して当時少年だった足利義高(後に義澄と改名)を11代将軍に擁立した(明応の政変)。専制権力を樹立した政元であったが、女人禁制である修験道の修行をしていたために実子はおらず、兄弟もいなかったため細川京兆家には政元の後継者がなく、関白九条政基の末子の澄之、細川一門の阿波守護家から澄元、さらに京兆家の分家の野州家から高国の3人を迎えて養子にしたため、分裂抗争の芽を胚胎することとなった。応仁の乱で諸大名家が跡継ぎ争いを起こし弱体化を招く中、細川家では勝元の後継者に養子の勝之を推す動きは一部であったものの、勝元の実子である政元が嫡男として継承することでまとまっており、その結果政元の時代には細川家は幕府の中での地位をより強固にすることができた。しかしその政元に血縁の近しい後継者がおらず、ここにきて他大名家よりも一代遅れで京兆家にも跡継ぎ争いが発生するに至ったのである。

永正3年(1506年)、摂津守護となった澄元が実家の阿波勢を率いて入京し、その家宰三好之長が政元に軍事面で重用されるようになると、これまで政元政権を支えてきた「内衆」とよばれる京兆家重臣(主に畿内有力国人層)と、阿波勢との対立が深まる。
政元暗殺(細川殿の変)

永正4年(1507年)6月23日、修験道に没頭して、天狗の扮装をするなどたびたび奇行のあった細川政元は、魔法を修する準備として邸内の湯屋に入ったところを、澄之を擁する内衆の薬師寺長忠香西元長・竹田孫七らに唆された祐筆の戸倉氏によって殺害された(細川殿の変)。さらに翌日、長忠らは澄元・三好之長の屋敷に攻め寄せ、澄元らを近江に敗走させ、主君として澄之を迎えて細川京兆家家督を継がせた。6月26日には、政元の命令を受けて丹後一色義有を攻めていた赤沢朝経が軍を京都に撤退させようとしたが、一色義有や丹後の国人・石川直経らの反撃を受け、自害に追い込まれた(養子の長経は逃げ延び、澄元の配下になる)。

しかしもう1人の養子・高国は、一族の摂津分郡守護細川政賢淡路守護細川尚春河内守護畠山義英と語らい、政元の後継者を澄元とすることで合意をみた。なお、高国については政元の存命中に養子縁組が解消されて、実家である野州家を継承していたとする説も出されている[1]

まず7月28日、薬師寺元一(弟・長忠に滅ぼされている)の子・万徳丸は長忠の居城茨木城を攻め落した。続いて翌29日、細川高国らは香西元長の居城嵐山城を攻め落とした。そして8月1日、逃亡先の近江甲賀郡の国人らを味方に引き入れ急ぎ京に戻った三好之長が、細川澄之の最後の砦となっていた遊初軒を高国勢とともに一気に攻め落したため澄之は自害した。翌2日、細川澄元は将軍に拝謁し、細川京兆家の家督を継いだ。

澄之と澄元の一連の戦いは、当初細川京兆家の家督争いであると考えられていた。しかし、澄之の烏帽子親を務めた細川政賢や、細川尚春など、細川氏の人間はみな澄元方として参戦していることから、家督争いではなく、「細川氏とその家臣の対立」であったと考えられる[2]
澄元と高国の対立


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