永楽帝
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永楽帝 朱棣

第3代皇帝
明成祖
王朝明
在位期間建文4年6月17日 - 永楽22年7月18日
1402年7月17日 - 1424年8月12日
都城南京応天府→北京順天府
姓・諱朱棣
諡号体天弘道高明広運聖武神功純仁至孝文皇帝(洪熙帝による)
啓天弘道高明肇運聖武神功純仁至孝文皇帝(嘉靖帝により改称)
廟号太宗(洪熙帝による)
成祖(嘉靖帝により改称)
生年至正20年4月17日
1360年5月2日
没年永楽22年7月18日
1424年8月12日
洪武帝
孝慈高皇后(論争あり)
后妃仁孝文皇后
陵墓長陵
年号永楽 : 1403年 - 1424年
洪熙帝(4代皇帝)

永楽帝
明成祖朝服像
各種表記
繁体字:永樂帝
簡体字:永?帝
?音:Y?ngle di
ラテン字:Yung3-le4 ti4
和名表記:えいらくてい
発音転記:ヨンラ ディ
英語名:Yongle Emperor
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永楽帝(えいらくてい)は、の第3代皇帝は朱(しゅ)。は棣(てい)。廟号は太宗(たいそう)のちに成祖(せいそ)。諡号は文皇帝(ぶんこうてい)。

その在位中の元号永楽」から永楽帝と呼ばれる。
生涯
燕王時代

至正20年8月14日1360年5月2日)、紅巾の乱で頭角を現した群雄の一人・朱元璋(後の洪武帝)の四男として生まれた。記憶力が極めて高く、幼い頃は早朝から学者を招き、一度読んだ本の内容は忘れなかったとされる。洪武3年(1370年)に北平都指揮使(中国語版)に封じられるが、実際に北平に赴いたのは洪武13年(1380年)、21歳の時である。明はモンゴル高原に駆逐したが、依然として勢力を有していた(北元)。北方の要衝であるは極めて重要な防衛拠点であり、ここに封じられた朱棣はその戦場での能力と勇敢さを洪武帝から認められていた。

洪武23年(1390年)、洪武25年(1392年)、洪武29年(1396年)と北伐を行い、ことごとく勝利した。洪武帝は朱棣の働きについて「北顧の憂いなし」と述べたと伝わる。

洪武25年(1392年)に皇太子であった長兄の朱標が死去すると、洪武帝は朱棣に皇位を継がせようとしたが群臣に反対されたために取り止め、朱棣を後継にできないことを嘆き悲しんだと『明史』にある[注 1]

洪武31年(1398年)、洪武帝の崩御にともない甥にあたる建文帝(朱標の子)が即位した。その側近である斉泰黄子澄らは皇帝権力を確立するため、洪武帝が各地に封じた皇族の取り潰しを画策した。この時、当時燕王であった朱棣は2月に自ら都の南京に赴いた。戸部侍郎であった卓敬はこの機を捉えて朱棣を南昌へと配流すべきと上表したが、建文帝は「燕王は血肉を分けた至親である、謀反の心配などはない」と答えたと言う。

しかし3月、北平の官吏の一部が燕王と結託したと言う報告が入り、斉泰らは内通者を逮捕。都督の宋忠(中国語版)に燕王の指揮下にある軍隊を率いさせて出動させると言う方法で北平の兵力を削減した。この頃から朱棣は仮病を使ったり狂人の振りをしていたとする。しかし、燕王の仮病を密告するものがいたため斉泰らは朱棣を逮捕するように指示した[注 2]

これに反発した朱棣は朝廷関係者と内通者を逆に捕縛し殺害。兵を集め、南京の建文帝に対し反乱を起こした。朱棣は自らの軍を「靖難軍」(君側の奸を討ち、国難を靖んずるの意味)と呼び、ここからこの反乱を靖難の変と呼ぶ。
靖難の変「靖難の変」も参照永楽年間の明の版図

7月に反旗を揚げた朱棣は通州薊州に出撃し、同時に居庸関を占拠、北平の背後を安定させた。8月には耿炳文率いる南京からの討伐軍を雄県の会戦で撃破したが、この時は真定城を攻略できずに軍を返した。

この敗戦後、黄子澄の進言を受けた建文帝は耿炳文を更迭。新たに李景隆李文忠の長男)に50万と号する兵を与えて北上させたが、この人事を聞いた朱棣は「是自らこれを坑にするなり(あの無能者が指揮官なら自滅するだけだ)」と手を叩いて喜んだと伝わる。11月に北平城下で官軍に大いに破り、李景隆を徳州に敗走させた[注 3]

建文2年(1400年)1月、朱棣は蔚州大同を攻撃。北平の西方を安定化させた。官軍も徐輝祖徐達の長男)らの増援軍を派兵し、総勢60万、100万と号する大軍を北上させ白溝河(中国語版)の戦いが起こった。この時は官軍の平安瞿能らの勇戦により、前半では朱棣自身が乗馬を三度乗り換えるほどの命の危機も迫ったとされるが、後半に燕王軍が盛り返し、瞿能は敗死、李景隆は南方の済南に逃亡、官軍の武器や食料はことごとく燕王軍の手に落ちた。

李景隆はさらに南方に逃れたが、山東参政の鉄鉉が斉南城を3カ月に渡って死守。結局攻め落とせなかった朱棣は軍を返したが、鉄鉉の追撃により撃破され徳州・滄州を奪還された。

一度北平に戻った朱棣は兵を整えてから10月に再び軍を動かした。史書には「一昼夜に三百里を行く」と記された強行軍をもって滄州の官軍を攻撃。主将の徐凱を捕縛し、滄州を再度奪回した。さらに12月に東昌の会戦(中国語版)で盛庸率いる官軍と激突したが、このときは燕王軍の中核武将の一人であった張玉が戦死し、兵の損害は1万を超え、朱棣自身も一時は包囲され命の危機を感じるほどの敗戦であった。

翌建文3年(1401年)3月、軍を立て直した朱棣は3度目の出兵を行った。?沱河で再び盛庸と交戦し勝利を収めた。翌月閏3月には藁城で平安・呉傑(中国語版)率いる官軍6万を打ち破ると言う大勝利を収めた。

4月、朱棣は大名に進出。このとき朝廷は斉泰と黄子澄を退けるという妥協を示した。それを受けて朱棣は盛庸らの召喚を要請したが、朝廷は「軍を北上させて燕王軍の解散を見届ける」と言う高圧的な返信を返してきたため、5月には再び戦端が開かれた。和平工作が決裂後、朱棣は徐州に軽騎兵を出撃させて官軍の兵糧船数万艘を焼き払った。7月には平安率いる官軍に北平城外まで迫られたが、これを凌いで撤兵に追い込んだ。この後両軍は散発的に交戦するが、戦況に大きな変化はなかった。


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