永昌郡(えいしょう-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。後漢から南北朝時代にかけて、現在の雲南省西部に設置された。ほかに別の地に置かれた永昌郡がいくつかあったが、それらはいずれも短期間のものに終わった。 69年(永平12年)、哀牢王柳貌が後漢に帰順すると、その地に永昌郡が置かれた[1]。 後漢のとき、永昌郡は益州に属し、不韋・?唐・比蘇・葉楡・邪龍・雲南・哀牢・博南の8県を管轄した[2]。 225年(建興3年)、三国の蜀漢により建寧郡と永昌郡が分割されて雲南郡が新設された[3]。 271年(晋の泰始7年)、寧州が立てられると、永昌郡は寧州に転属した。西晋の永昌郡は不韋・永寿・比蘇・雍郷・南?・?唐・哀牢・博南の8県を管轄した[4]。311年(永嘉5年)、寧州刺史の王遜が永昌郡と雲南郡を分割して河陽郡
概要
南朝宋では、西河陽郡と東河陽郡があったが、永昌郡の記録は見られない[5]。
南朝斉のとき、永昌郡は永安・永寿・不建・??・雍郷・西城・博南の7県を管轄した[6]。 西魏のとき、宣漢県に永昌郡が置かれ、開州に属した。583年(開皇3年)、隋が郡制を廃すると、永昌郡は廃止されて、開州に編入された[7]。 北斉のとき、豊県に永昌郡が置かれた。まもなく廃止された[8]。 北周のとき、大昌県に永昌郡が置かれた。まもなく廃止された[7]。
開州永昌郡
徐州永昌郡
楚州永昌郡
脚注^ 『後漢書』顕宗紀および南蛮西南夷伝
^ 『後漢書』郡国志五
^ 『三国志』蜀志後主伝
^ 『晋書』地理志上
^ 『宋書』州郡志四
^ 『南斉書』州郡志下
^ a b 『隋書』地理志上
^ 『旧唐書』地理志一
表
話
編
歴
漢朝の行政区分
司隷校尉部
京兆尹(渭南郡)
左馮翊(河上郡)
右扶風(中地郡)
河南郡
河東郡
河内郡
弘農郡
豫州刺史部
潁川郡
汝南郡
梁国(?郡