永昌郡
[Wikipedia|▼Menu]

永昌郡(えいしょう-ぐん)は、中国にかつて存在した後漢から南北朝時代にかけて、現在の雲南省西部に設置された。ほかに別の地に置かれた永昌郡がいくつかあったが、それらはいずれも短期間のものに終わった。
概要

69年永平12年)、哀牢王柳貌が後漢に帰順すると、その地に永昌郡が置かれた[1]

後漢のとき、永昌郡は益州に属し、不韋?唐比蘇葉楡邪龍雲南哀牢博南の8県を管轄した[2]

225年建興3年)、三国蜀漢により建寧郡と永昌郡が分割されて雲南郡が新設された[3]

271年泰始7年)、寧州が立てられると、永昌郡は寧州に転属した。西晋の永昌郡は不韋・永寿・比蘇・雍郷南?・?唐・哀牢・博南の8県を管轄した[4]311年永嘉5年)、寧州刺史王遜が永昌郡と雲南郡を分割して河陽郡を立てた。東晋成帝のとき、河陽郡は東西に分割された。

南朝宋では、西河陽郡と東河陽郡があったが、永昌郡の記録は見られない[5]

南朝斉のとき、永昌郡は永安・永寿・不建・??・雍郷・西城・博南の7県を管轄した[6]
開州永昌郡

西魏のとき、宣漢県に永昌郡が置かれ、開州に属した。583年開皇3年)、が郡制を廃すると、永昌郡は廃止されて、開州に編入された[7]
徐州永昌郡

北斉のとき、豊県に永昌郡が置かれた。まもなく廃止された[8]
楚州永昌郡

北周のとき、大昌県に永昌郡が置かれた。まもなく廃止された[7]
脚注^後漢書』顕宗紀および南蛮西南夷伝
^ 『後漢書』郡国志五
^三国志』蜀志後主伝
^晋書』地理志上
^宋書』州郡志四
^南斉書』州郡志下
^ a b隋書』地理志上
^旧唐書』地理志一










漢朝の行政区分

 前漢

司隷校尉部

京兆尹渭南郡

左馮翊河上郡

右扶風中地郡

河南郡

河東郡

河内郡

弘農郡

豫州刺史部

潁川郡

汝南郡

梁国(?郡)

沛郡

?州刺史部

淮陽国淮陽郡

陳留郡(済川郡)

定陶国(済陰郡

東郡

山陽郡(昌邑国)

東平国

泰山郡

城陽国

青州刺史部

斉郡

済南郡(博陽郡)

済北国

平原郡

千乗郡

?川国

高密国膠西国

北海郡

膠東国


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:65 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef