永平寺
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永平寺
永平寺の勅使門(唐門)
所在地福井県吉田郡永平寺町志比5-15
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯36度3分11秒 東経136度21分20秒 / 北緯36.05306度 東経136.35556度 / 36.05306; 136.35556座標: 北緯36度3分11秒 東経136度21分20秒 / 北緯36.05306度 東経136.35556度 / 36.05306; 136.35556
山号吉祥山
宗派曹洞宗
寺格大本山
本尊釈迦如来弥勒仏阿弥陀如来
創建年寛元2年(1244年
開山道元
開基波多野義重
文化財普勧坐禅儀国宝
梵鐘、道元禅師嗣書、山門、中雀門ほか(重要文化財
公式サイト大本山 永平寺ホームページ
法人番号1210005001129
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永平寺仏殿

永平寺(えいへいじ)は、福井県吉田郡永平寺町にある、曹洞宗仏教寺院總持寺と並んで、日本における曹洞宗の中心的な寺院(大本山)である。山号を吉祥山と称し、開山道元本尊釈迦如来弥勒仏阿弥陀如来の三世仏である。寺紋は久我山竜胆紋(久我竜胆紋・久我竜胆車紋)。
歴史
道元による開山

道元は出家して比叡山延暦寺に上った後にに渡り、天童山景徳寺如浄に入門し、ひたすら坐禅に打ち込む「只管打坐(しかんたざ)」の禅風を継いで帰国。初めは建仁寺に住し、のちには郊外の深草興聖寺(こうしょうじ、廃寺となった後に宇治市で再興)を建立して説法と著述に励んだが、旧仏教勢力の比叡山からの激しい迫害に遭った。

道元は、信徒の一人であった武士波多野義重の請いにより寛元元年(1243年)、興聖寺を去って、義重の領地のあるた越前国(福井県)志比庄に向かった。義重は当初、道元を吉峰寺へ招いた。この寺は白山信仰に関連する天台の寺院で、現在の永平寺より奥まった雪深い山中にあり、道元はここで一冬を過ごし、翌寛元2年(1244年)には吉峰寺よりも里に近い土地に傘松峰大佛寺(さんしょうほうだいぶつじ)を建立した。これが永平寺の開創であり、寛元4年(1246年)に山号寺号を吉祥山永平寺と改めている。寺号の由来は中国に初めて仏法が伝来した後漢明帝のときの元号永平」からであり、意味は「永久の和平」である。
道元以降

その後の永平寺は、2世孤雲懐奘、3世徹通義介の下で整備が進められた。義介が三代相論で下山し、4世義演の晋住後は外護者波多野氏の援助も弱まり寺勢は急激に衰えた。一時は廃寺同然まで衰微したが、5世義雲が再興して現在に至る基礎を固めた。義雲から19世祚玖まで[1]と、22世の常智祚天は寂円派の住持であった。

暦応3年(1340年)には兵火で伽藍が焼失、応仁の乱の最中の文明5年(1473年)でも焼失した。その後も火災に見舞われ、現存の諸堂は全て近世以降のものである。

室町時代から安土桃山時代にかけて皇室から重んじられ、応安5年(1372年)には後円融天皇より「日本曹洞第一道場」の勅額綸旨を、天文8年(1539年)には後奈良天皇より「日本曹洞第一出世道場」の綸旨を、天正19年(1591年)には後陽成天皇より「日本曹洞の本寺並びに出世道場」の綸旨を受けた。

江戸時代初期の元和元年(1615年)、徳川幕府より法度が出され總持寺と並び大本山となる。
伽藍境内配置図 1.山門、2.仏殿、3.法堂、4.僧堂、5.大庫院、6.浴室、7.東司、8.承陽殿、9.鐘楼堂、10.勅使門、11.中雀門、12.祠堂殿、13.傘松閣、14.吉祥閣
文化財については後述


勅使門:天保10年(1839年)の建築。

山門:寛延2年(1749年)の建築。重層の門で、階上には釈迦如来像、五百羅漢像などを安置する。

中雀門

通用門

円通門

仏殿:明治35年(1902年)の建築。本尊の久遠実成の釈迦・方便の釈迦・無量寿の釈迦(阿弥陀如来)の三世仏(過去・現在・未来を表す)の他、禅宗初祖の達磨像、道元の師である如浄禅師像などを安置する。

法堂(はっとう):天保14年(1843年)の建築。聖観音(しょうかんのん)像を安置する。

大庫院 - 昭和5年(1930年)の建築。地上3階地下1階の近代木造建築で、台所兼事務所の役を果たす。建築当時のエレベーターが現存しており、これは稼動中のものとしては日本屈指の古さといわれる。

承陽殿:明治14年(1881年)の建築。開山道元の廟で、道元以下第5世までの住職の像を安置する。

僧堂:明治35年(1902年)の建築。僧堂は坐禅修行のための建物である。

傘松閣(さんしょうかく) - 昭和5年(1930年)の二祖国師・孤雲懐奘650回忌を記念して建築。道元禅師と永平寺の名は、永平寺最初の山号「傘松峰」に由来。222畳敷きの大広間があり、天井画は小室翠雲らの尽力により、荒木十畝伊東深水鴨下晁湖川合玉堂島田墨仙野田九浦益田玉城水上泰生山田敬中山本昇雲など計144名の画家によって描かれた[2]

吉祥閣:昭和46年(1971年)の建築。地上5階地下1階の宿泊研修施設で、曹洞宗に限らず参禅研修を希望する人を広く受け入れている。

浴室:昭和55年(1980年)の改築

東司

真陽閣

光明蔵

不老閣

宝蔵

一華蔵

孤雲閣

瑠璃聖宝閣

五葉関

祠堂殿

文化財の建物19棟については、清水建設の協力を得てレーザーで内部まで精密に計測してデータ化し、デジタルツインを作成済みである[3]

一文字廊と仏殿

仏殿

法堂

法堂

祠堂殿

道元を祀る承陽殿の前にある承陽門

中雀門

僧堂

大庫院

傘松閣


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